先回の続きですが、渋沢栄一が招いた伊藤博文、徳川慶喜、桂太郎、井上馨などの大物たちは、どんな会話をしながら、懐石を味わったのでしょう。
法の如くなら、中立をした筈で、ただ、それが、どこにしたか見当がつきません。後座の床には、古銅象耳四方口の花入が、矢筈板に載せられ、白い木槿の花が入れられました。水指は祥瑞で、形や文様は記録がありませんが、さぞ見事な品だったに違いありません。茶杓は利休の作で、山田宗徧の筒が添っているもの。茶碗は、高麗のととやで、勿論、本手の品で、夏にぴったりの平茶碗でしょう。建水は砂張、蓋置は古銅の火舎香炉と堂々たる品揃えの中に、茶入だけが、黒中棗で、表千家六代覚々斎原叟の在判という、他に比べると格落ちの品です。これは、名物茶入など使って重苦しくなるのを避け、夏の暑い時ではあり、少し軽くしようという戦略でしょう。茶は「好の白 横井詰」とあり、名古屋の横井の詰でしょうか?薄茶については、干菓子が七宝形の紅白の打ち物だった事と、薄茶碗が、数茶碗で遠州信j楽の切形だった事しか記載がありません。茶碗は、小堀遠州がデザイン発注したと伝わるもので、私も見たことがあります。昔は相当に数があったのが、現在はバラバラで各所に伝来しますが、この時、ここには五人や六人分の数があったのでしょう。続き薄にしたのか、想像を逞しくすれば、月見台に席を移して点て出しにでもしたか。この茶会の会記は、大正六年に出された「古今茶の湯集」に載るもので、資料は、多分川部宗無が、編纂者の山本麻渓に提供したのでは、と思います。
さて、この会合に何も目的はなかったのでしょうか。茶会に事よせて何か話し合う事でもあったのか?真夏の正午という、朝茶以外は、茶会向きではない時期に何故?江守奈比古氏は「大政奉還の実行者でありながら、蟄居している慶喜に対し、明治政府の理解が欠けている事を嘆いた渋沢が、政府要人を集め、慶喜に維新当時の真情を吐露させ、当時の尊王の気持ちを理解させた、これで、慶喜は復権を認められて、公爵の地位を得た」という意味の事を書かれ「月見台で慶喜を囲んで、一同、維新の頃の懐旧談に耽った」と、見てきたように書かれますが、これ、時間的におかしい。慶喜は、明治31年には、明治天皇に皇居に招かれ謁見会食し、2年後には麝香間祗候という宮中職に任命され、茶会より3年前の明治35年には公爵を授与され自動的に貴族院議員になっています。とっくに復権していて、今更、和解でも懐旧談でもないでしょう。それにしても、茶会の時期は、微妙な時期ではあります。日露戦争が終盤で、講和条約会談のため外相小村寿太郎が、盛大な見送りを受け旅立ち、茶会の前々日、米国西海岸に到着して、いよいよポーツマスに向かうという、いわば日本中が息を呑んで成り行きを見つめている時期です。そんな中、多忙な政府要人が何故、慶喜を囲んで?以下は、全く小説的な私の勝手な想像ですが、やはり時局に関しての会合では、と。講和の仲介者米国の真意を探るため、慶喜の持つ人脈を使って、情報を集めようと考えた。慶喜は幕末、日本の代表者として米国と親しく外交し、大正2年に慶喜が死んだ時は、米国は大変に丁重な弔意を表してています。その頃の人脈を、慶喜は、まだしっかり持っていたのでは。渋沢や益田などの実業界の情報とも突き合わせたかったのではと想像します。(バルチック艦隊の来襲情報を最も早く掴んだのは三井物産だったというほど、情報量に優れていた)
もっと小説的にすると、徳川の埋蔵金を探ろうとした。日本政府は戦費に困窮し、その弱みを見せないために、東北地方で大規模な金鉱が発見されたというフェークニュースを流したりするまでのことをしました。維新の折、小栗上野介が、密かに膨大な金塊を赤城山辺に隠したという説の真否の情報を探り、発掘するか、それをネタのフェークニュースを流す手はないか考えた。そこで慶喜を呼んだ。
妄想は、このくらいにして、ただの風雅な茶会とする方が無事でしょうかね。
萍亭主