今、東京北区王子の飛鳥山公園の一部になっている旧渋沢栄一邸宅跡、平成9年でしたか、渋沢史料館が建てられ、その管轄になっていると思いましたが、東京在住の方は、訪問された人も多いでしょう。第二次大戦の空襲で、渋沢の晩年に建った晩香廬と青淵文庫という、現在、重要文化財になっている建物以外、全て焼けてしまったのですが、その中に「無心庵」という茶室がありました。
この飛鳥山の地は、明治12年に渋沢が別荘を建て、曖依村荘(あいいそんそう)と名付け、明治34年からは本宅として使用し、昭和6年に歿するまで住みました。渋沢の語るところでは、ここに庭を作ろうとした際、益田克徳と柏木貨一郎(美術研究家)が、庭を作るなら、是非そこに茶室も作りなさいと、うるさく勧めて、任せることにしたというのです。これが、明治の何時ごろのことか、はっきりわからないのですが、どうも克徳が設計、監督し、柏木が実務をしたようです。面倒見が良く、茶の湯仲間を増やす目的もあって、克徳が設計した茶室は数多いのですが、依頼主の注文や、予算費用の制限などがあって、一切の束縛がなく自由に作れたのは、自分の家の茶室と、この曖依村荘の茶室だけだったろうと、高橋箒庵が東都茶会記で語っています。一度任せたらという、渋沢のおおらかさが感じられます。ちなみに克徳設計の茶室は、根津美術館に移築された斑鳩庵以外、現存しないようです。
昭和24年に朝日新聞社から出版された「茶室」に、江守奈比古氏の説明文が、僅かな白黒写真と共に載っています。それによると、茶室は、邸内の東南隅の崖の上に建ち、茅葺屋根であったといいます。別棟の三畳の寄付から、屋根のある中門を潜り、飛石伝いに、かなりの大きさの蹲を使い、本席に向かいます。躙口と貴人口を備えた四畳半台目で、躙口正面に、六尺五寸幅の床の間があり、それと並んで台目畳の点前座に向切の炉が切ってある。床との間の犬潜り(風炉先)は、裏千家の寒雲亭の写しで、点前口は方立口で、給仕口はありません。床の間と鍵の手に三尺の板を入れ、上に一重棚を釣ってあり、床の大きさとあいまって広々とした感じの席です。三畳の水屋と雪隠が付属し、雪隠は外からでも入れるようです。水屋から廊下を挟んで、広間の点前口(襖)に行けます。客は、庭伝いに、本席より一間ほど下がって並列している広間の障子口から入ります。広間は八畳で、床の間は点前口と並ぶ六尺の下座床、炉は切ってありません。屋根裏が、一部、寒雲亭のような船底天井になっています。広間の後ろに廊下伝いに六畳の次の間と勝手が付属しています。広間の客口と鍵の手の東側二間も障子で、出ると深い軒下が瓦敷で、回廊で、東側の崖に乗り出した、清水寺の舞台作りのような、屋根のある月見台に通じます。昔は、ここから見る王子の風景は、下は一面の田んぼで、王子製紙の煙突が遠く見える絶景だったといいます。渋沢はここでの接待を好んだかも知れません。
下は、無心庵の見取図などです。(「茶室」より)
気になるのは、腰掛待合が図面にも説明にもない事ですが、図面には中門の位置も書かれていないので、多分、腰掛も省略されたのではと思います。やはり腰掛は存在したのでしょう。益田克徳ほどの人の設計ですから。
高橋箒庵は、その著書の中で、益田克徳の茶の湯に関する才能、熱意、行動を賞賛し、特に多くの人を茶の湯に導き入れたことを大きな功績とし、何しろ、あの澁沢さんに茶室を作らせ、茶会を開かせたのだから、と讃えています。そうです、渋沢は、凄いメンバーを客に、茶会の亭主もしました。次回はその茶会の噺を。ただし明日は、ブログを休みます。
萍亭主
