明石からJR快速に乗れば、20分強で、城下町、姫路に着きます。この街にも昔は、焼き物がありました。

 例により、諸説ありますが、最初は、文政8年(1825)に、有田焼系統の磁器製法を学んだ橋詰藤作という人が窯を開き、姫路藩主の御用窯になったといいます。しかし四年ほどで潰れてしまいましたが、すぐ後の天保2年(1831)に、窯場を男山に移し再興しました。京都から、仁阿弥道八や尾形周平を招き、周平に陶法を学んでいた藩医の次男坊橘周蔵を責任者にし、藩が手厚く援助、保護しました。一説には、周蔵の方から、再興を願い出たのだともいいます。姫路藩は創立以来、藩主が十家も変わり、落ち着かない土地でしたが、寛延2年(1749)以降、有力大名酒井家が藩主として定着し、この頃が繁栄期でもありました。加えて藩主忠学が将軍家の娘を嫁に迎え、華美な交際を強いられた為、東山焼(とうざんやき)と呼ばれたこの焼き物は、大名同士の贈答品にも使われました。染付、金襴手、青磁など磁器中心の豪華な茶道具を主に高級品ばかりを作りました。窯の場所から男山焼とも呼ばれたそうですが、実は3年ほどで別の場所に移っています。嘉永5年(1852)、将軍家献上品を作るために、京都から水越与三兵衛、高橋道八を招き、古染付写しなど繊細美麗な品で最盛期を迎えましたが、その後、藩財政が悪化、民間に払い下げられました。その後は飯茶碗など日用品作りに変わり、姫路焼として、大阪などに輸出されました。しかし、廃藩の時期に閉鎖されました。藩窯の頃は「播磨東山」「東山」の銘が多く、「姫路製」などの銘もあるそうです。

 さて、実は私は、東山焼に触れたことがありません。展覧会などで何度か見ている筈ですが、あまり印象がない。作風が京焼と全く変わらないという通り、特別な印象がないせいでしょう(私の記憶力の悪さもあり)。道具屋めぐりで、ぶつからないのは廻り合わせの運命でしょうか。

 明治になってから、旧姫路藩士の生活援助を目的に、姫路焼の陶工を雇い、永世社という会社を設立、当時流行の外国輸出を目指し、「日本姫路白鷺」などの銘で鑑賞品中心に佳作を作りますが、武士の商法で経営に失敗し、明治15年に解散しました。しかし、その陶工の一人、中川勇次郎は、独立して、従来の磁器だけではなく陶器でも独自の境地を開きました。永世社の指導に来ていた肥前の陶工柴田鴨脚に手捻りの技を学び、鷺脚と号し、鷺脚焼(ろきゃくやき)と呼ばれ、日本陶磁大辞典(角川版)にも、その名で掲載されています。これも姫路焼の一種として、そう呼ぶ本もありますが。彫塑や毛彫の技術を多用し、技巧が過ぎるので、あまり茶の湯らしくないとも言えますが、その技巧は、それなりに大したものです。

 下は、鷺脚作の蟹図茶碗です。十匹いる蟹は、貼り付けか削り出しか、よくわかりませんが、彼の得意技の一つだそうです。。

 

 

 

 今日は、この辺で。

    萍亭主