尼崎からJR快速で30分余で明石に着きます。ここの明石焼といえば、一般には名物のタコ焼きの一種しか考えられないでしょう。しかし、こういう名前の焼き物が、昔はあったのです。
ただ、私も名前はよく聞くわりに、この焼き物については、ほとんど知りません。今まで、茶会や古道具屋巡りでも、お目にかかる機会がなく、語る資格はないかも知れません。ただ、最近、娘から聞いた話では、淡交社の物品販売に、綺麗な色絵の明石焼茶碗が、坐忘斎家元の箱書付きで出ていたそうで、値段は「お父さんが買えるような金額じゃない」そうですが、残念ながら、見ることも出来ませんでしたが、茶陶があることは確かです。
大体、資料を読んでも、学説もさまざまなようで、そもそも明石焼の名は、舞子を含め、この近辺で焼かれたものの総称だという人もいれば、きちんと分類したがる人もいるようです。そもそも、伝説では、明石藩設立の江戸時代初期、藩主小笠原家が野々村仁清を招き、什器を焼かせた、だから、後にも色絵の伝統があるんだというんですが、伝説に過ぎないようです。江戸時代後期、各地と同じく、陶器製造が始められ、沢山の窯が、出来たり潰れたりしながら明治期位まで続いた、京大阪が近いので多勢の陶工が来て焼く、吉向が指導したという窯もある、作風も色絵だけでなく様々で、作品も抹茶器、煎茶器、食器、日用雑器と幅広く、窯の名前の方も「明石焼」だけでなく「人丸焼」「朝霧焼」「ほのぼの焼」「須磨焼」など、それぞれに名乗った。お気付きでしょうが、この辺は万葉の昔から名所で、柿本人丸の「ほのぼのと明石の浦の朝霧に」の歌から名付けたもので、一部の窯は、当時の旅行本に名産土産として紹介されているそうです。昭和初期の本には、やたら細かく、ごしゃごしゃ書いたものもありますが、混乱するばかりなので、やめておきます。
舞子焼も、前述のように、明石焼の一部という人もいますが、伝承はわりとはっきりしていて、寛政2年(1790)頃、衣笠宗兵衛が付近の土で焼き、舞子の浜で販売したのが最初で、その子の代に一度潰れたのを、天保年間(1830〜43)高田槌之助が再興、その子の千代松は、明治期、舞子にあった有栖川宮の別荘(現在の舞子ヴィラの場所)に出入りを許され、御用品を納めました。晩年の4年間をこの地に過ごした有栖川宮威仁親王は舞子焼を愛用し、「和風堂」の称を下賜したといいます。窯は大正末に廃業になりました。舞子焼は、当初から日常雑器と共に、茶入、菓子器など茶道具も焼き、茶人に案外人気があったといいます。「和風堂」印のものは特に高級とか。
下の写真は、舞子焼の三つ足火入です。「舞子」「まいこ」「まひこ」などの印がある筈ですが、これは無印で、京都の馴染みの骨董屋で勧められた時、そういうと、「古いものには無印もよくある」と主人に言われ、主人は国焼の権威なので、信用することにしました。
近年、日本陶磁大辞典(角川版)を見て、舞子焼の項に「土灰釉による蕎麦色の陶胎に点々と鉄の染みが出ているのが特徴で、素朴さの中に雅味を感じさせる」という記述に合うので、まあ、いいのだろうかと思っています。
萍亭主

