伏見稲荷から京阪本線淀屋橋行に乗れば、20分余で石清水八幡宮に着きます。京都駅からでも近鉄で丹波橋で京阪に乗り継ぎ30分弱、この街には現在、松花堂昭乗に因む松花堂庭園が設けられ、昭乗ゆかりの茶室や、小堀遠州、千宗旦好みの茶室が復元されて、茶の湯好きには格好の散策地です。勿論、男山の別名で知られる八幡宮など数々の観光名所もあり、紅葉の頃には観光客も殺到する地です。
ここに昔、南山焼(なんざんやき)という窯がありました。これは浅井周斎という人物が江戸中期に創ったとされます。周斎は大坂の豪商でしたが、この近辺の南山に隠居し、趣味の作陶に耽った風流人です。松花堂庭園の近くに三万坪の敷地を誇る円福寺は天明3年(1783)創立の臨済宗最初の専門道場ですが、この寺域は周斎が寄進したもので、周斎の墓も寺内にあります。周斎は財力で、日本各地の陶土を取り寄せ、その土地の焼き物の写しを作ったりしたといい、大変な才能があって、同時代の専門陶工高橋道八や帯山与兵衛にも引けを取らない出来栄えで、南山の印を捺し、世に珍重されたと伝えます。ですが、私は周斎の作品を実際に見たことがありません。図録で2点ほど見ただけです。周斎の死後、南山焼は途絶え、窯跡も失われますが、明治末期に円福寺の信徒が中心となり復興されます。この時、実務に招かれたのが、前にブログにも書きましたが、粟田の帯山与兵衛だったと言われます。現在、市場に流通しているのは、この復興南山焼です。楽焼系の茶器などが主流のようで、円福寺の住職でもあり大徳寺五代管長の松雲老師の箱書のものも見受けます。ただし、この復興南山焼に関しては、言及している本は、ほとんどなく、埋没状態なのです。
日本の焼き物の歴史を見ると、江戸時代中期から後期にかけて、地方地方に小さな窯業が沢山起こります。産業振興や経済成長のためですが、多くがまた社会組織や流通の変化で、明治初期から大正くらいまでに廃絶してしまいます。一方、又それを再興しようという運動が、明治末から起こり、それが又、第二次大戦などで廃絶を繰り返すものが多いのです。南山焼も、復興してまもなく又廃窯となりました。大正時代に入って間もなくという説もありますが、昭和初期説が正しいように思います。時々見かける八幡宮に因んだ鳩の香合は、石清水八幡宮に参詣のケーブルカーが大正15年に開通した時、竣工記念として、電鉄会社が配ったものだという説があるからです。下は、その赤楽鳩香合で、醍醐焼同様、京都の馴染みの店で手
に入れました。
下の写真は、香合の身の前方に捺された窯印です。「やはた南山」と読めます。
南山焼という名前は、実は日本各所にあって、幕末に京都から陶工を招き昭和20年代まで続いた歴史を持つ岡山県津山市の窯や、新潟県や栃木県などにも同名の焼き物があるので、気をつけねばいけません。
余談ですが、昔、あるデパートの茶道具展の添え釜にぶらりと入ったら、この鳩香合が飾られていました。自分が手に入れた頃のことでしたし、「南山焼でございますか」と挨拶したら、ご亭主は、えっという顔で「恐れ入りました、その通りでございます」の後に「道具屋さんですか?」と言われ、苦笑したことがあります。自覚はしていましたが、到底、茶人には見えないようです。
萍亭主

