考えて見れば、日本は実に陶芸の盛んな国です。京焼の中にも、数え切れない窯があり、もし、それぞれが、自分の作品を何々焼と命名したら、えらいことになるでしょう。
昨日書いた「嵯峨焼・嵐山焼」にしても、取り上げている本、資料も少なく、また、その内容、解説もかなり、まちまちです。私は、生産されていた時代に近い佐々木三味氏の説を参考にしましたが、陶芸研究家の黒田和哉氏が書いている説は、年代などが微妙に違っています。大体、工芸作家については、かなり現代に近い作家でも、その伝記はよくわからなくなるもので、埋没した資料は、知る人ぞ知るで調べがつきにくくなる事はまま有ります。余談ですが、漆芸作家などは、陶芸作家以上に埋没してしまう例が多い。道具屋さんの中でも、分かる人と知らない人が極端になったりします。
昔、京都によく行っていた頃、馴染みになった骨董屋さんで、一つの茶碗を勧められました。「醍醐焼の茶碗があるが、安いからどう?」「醍醐焼って?」。醍醐は、醍醐寺などで有名な観光名所で、今は地下鉄の開通で京都の中心からも容易く行けますが、昔は少し訪ねるのが面倒なところでした。そこに窯があったのだそうです。骨董屋のご主人は、種々の研究者でもあり、国焼や、ポスター、豆皿などに関する著書も出し、物知りの人物です。「大正くらいに、桃亭さんが焼いたもんや、あんまり出て来るもんでもないし、一つ持っといても良いやろ」。何でも、観世流の大家のおうちから出た品で、数茶碗で、すごく沢山の量があったので、適当にバラして売り、最後に残った一つだったようです。桃亭については、どんな陶工かご主人も実は詳しくはないらしく、姓もあやふやで、五条坂出身で、大正くらいの人だ、上手だなと思うよ、今はなくなった窯だという大雑把なもの。後に本を調べても、加藤唐九郎の陶器辞典に記載があるのは、幕末にこの地で焼かれた煎茶器を指すようですし、他の書には記載がありません。骨董屋の主人が勝手にそう呼んでいるわけでもなく、その後、他の道具屋で名前を出すと「ああ、近頃あまり出ないな」とか「御本みたいな品もある」など応じるので、京都では、この名前で作品が流通していた時期もあったのでしょう。現在はどうでしょうか?ネットで見ると、澤荷平という作家が醍醐窯の名で茶器を作っているようです。二代とありますので、昭和戦後にでも出来た窯なのでしょうか。大正期の醍醐焼とは関係なさそうで、また、醍醐焼というブランドにしているわけでもなさそうです。
下は、桃亭作の黒天目形茶碗。いかにも数茶碗の雰囲気ですが、よく見ると、なかなかしっかりした作りです。
下は桃亭の印。
ブランドでなく、あまりポピュラーでもなく、名品とも言えない品を云々するのはいかがなものと叱られるかもしれませんが、今日は、このくらいで。
萍亭主


