茶陶の旅、粟田口を終わろうと思いますが、最後に、江戸時代の窯元でなく、明治になって勃興した名家(これも絶えてしまいましたが)に触れておきたいと思います。それは伊東陶山家です。流石に、この名前は、ご存知の方も多いと思うのですが、正当に評価されているか、器の値段を見て首を傾げることもあります。
さて、初代は粟谷生まれ、三代高橋道八、幹山伝七、帯山与兵衛などに学び、幕末の慶応3年に祇園白川に窯を開きました。日本画もよくし、研究熱心で、粟田陶器組合の長に推され、粟田焼の伝統の消滅を憂い、その保全に努める一方で、伝統にとらわれない美意識を追求、明治29年に陶磁器研究所、伝習所を設立し、後に宮永東山らと「遊陶園」という研究団体を作るなど、京焼の発展に尽くしました。後に窯を粟田口の白川畔に移し、大正6年には、帝室技芸員に任じられます。帝室技芸員は今の人間国宝のようなものですが、明治26年から、昭和19年まで存在した制度で、79人が順次任命されましたが、陶芸で選ばれたのは、3代清風与平、真葛香山、諏訪蘇山、板谷波山と伊東陶山の5人しか居ません。(そういえば、当ブログの今月3日の「京焼の名工」で、諏訪蘇山と並んて同じ帝室技芸員の伊東陶山と書くべきところを勘違いで、三浦竹泉と書いてしまったようです。お詫びして訂正します)
初代陶山は大正9年に歿し、膳所藩家老の家出身の養子の二代陶山は、膳所焼の復興に尽力し、陽炎園の創立に協力しています。二代は昭和12年に歿し、三代陶山は、日展で活動すると共に、伝統的な茶道具も多数作りました。三代が昭和45年、自動車事故で死亡し、子がなく跡が絶え、粟田焼も終ったというのが通説ですが、私の手元に四代陶山の作品があるのです。共箱の中のパンフレットには歴代の事績が書かれ、ただ四代自身については、三代の遺作展を開催していることしか書いていない、東京の道具屋さんに聞いて見ても、誰も驚くだけで初耳だと言います。誰かが一時的に名乗ったのでしょうか。作品に捺す陶山印は、歴代少しづつ違います。花入、壺などの鑑賞陶器は、歴代、宮中買い上げなども多く、展覧会出品用の華やかで斬新な作品や、西洋食器も見受けますが、同時に茶陶の方も、しっかり作っています。
下は初代伊東陶山の黒釉富士山図筒茶碗。これは創作的な感の強い作ですが、伝統的な品もしっかりしていて、知人所有の呉須赤玉香合をを見たことがあるのですが、我が家の五代高橋道八の品と見比べると、道八も名工なのですが、陶山の方がどうも巧いなと感じたものです。この茶碗の印は、久邇宮家から拝領した「陶翁」の印です。
下は二代陶山の色絵糸巻蓋置。
下は三代陶山の色絵七宝文茶碗です。二代、三代の茶陶は、気張らない、穏やかな感じのものが多いようです。
下は、問題の四代陶山の色絵桔梗文茶碗。目利きに言わせると、高台の辺が下手だなといいますが。
粟田の陶家出身の明治以降の有名作家には、文化勲章を受賞した楠部弥弌(昭和59年歿)がいます。華やかな彩色や白磁の鑑賞陶器で名高く、実は茶陶も茶入、茶碗などを作っているのですが、あまり茶席に用いられず、茶陶作家や粟田焼というイメージと遠いので、粟田はこれでお終いにしましょう。
明日は、久しぶりに、ブログ上で、薄茶を一服差し上げたいと思います。
萍亭主












