江戸時代の、粟田焼の窯元として、前述の錦光山、岩倉山、帯山と並ぶ有力窯元として、宝山文蔵家があります。

 この家は、今、現役の陶家として、伝承によれば、最も古い家の一つと言えます。何しろ、楽長次郎を始祖とする楽吉左衛門家より古いのですから。伝説的な鎌倉時代の加藤藤四郎景正が始祖と主張する瀬戸の何軒かを除けば、最古の陶家でしょう。伝承によれば、信楽で土器を焼いていた、雲林院太郎右衛門尉康光が室町時代後期の天文年間(1532〜55)、京に出て、御菩薩池に窯を築き、賀茂神社の神器を焼いたのが始祖であるとします。天正年間(1573〜91)、4代の時に清水松原に移り、方広寺大仏殿の大仏殿茶碗を焼いたとされます。粟田に窯を移したのは、正保2年(1645)の7代の時で、9代(享保8年 1723歿年)の時から「宝山」を名乗りました。由来は、9代目は粟田天王社の神職も勤め、別当(神宮寺)の宝山律師に師事し、彼に与えられたという説と、聖天様で名高い大和生駒宝山寺の縁故だとする説もあります。いずれにせよ、器に宝山の印を捺すようになったのは、これ以降です。「11代が名工で種々の技法を使い、磁器も焼き、青木木米、仁阿弥道八などを指導した」と日本陶磁大辞典にありますが、これは何かの間違いでしょう、時代が合いません。この伝承は13代から15代までのことだと思います。江戸後期は、水戸徳川家、岡山と鳥取の池田家、対馬の宗家など沢山のの大名家を得意先に持ち、多数の品を納入しています。幕末の十六代は、青蓮院門跡から号を頂き、泰平宝山と名乗って活躍、維新後は他の窯同様、海外貿易に力を注ぎ、晩年五条坂に窯を移しました。17代宝山は有栖川宮から昌平の号を頂戴しました。その後、昭和期に泉涌寺に移り、今も、20代目が家業を続けて居られ、雲林院宝山を正式名称とされています。当代はもう八十歳過ぎではないかと思いますが、お元気でしょうか。

 宝山家の作品は、江戸後期から、どうも煎茶器が多いようで、食器、鑑賞陶器もある筈ですが、どういううわけか、個人的に私は、あんまり遭遇したことがなく、ことに明治、江戸期の品は、ほとんど見ていません。煎茶器の展覧会で当代の作を見た覚えはありますが。茶の湯の器がないわけではなく、お家芸だという南蛮写粽形花入とか、伊賀写水指、色絵の茶碗など、18代、19代の作は見た覚えはありますが、京の骨董商でも、どうも古いものにめぐり合った記憶に乏しいのです。

 下の写真は、19代の御本馬上杯茶碗です。昔、何気なく求めた品ですが、何かの参考にと。

 

 他に粟田の窯元は、一文字屋の屋号の暁山忠兵衛窯(本家は明治10年代に絶家)や、幕末明治初期に有名だった丹山青海(京焼に初めて印版技法をもたらしたとか)の丹山窯などがありますが、遺品も少なく、茶の湯にほとんど縁がないので、省略しておきましょう。

 萍亭主