さて、茶陶の旅です。清水を後に、粟田の方へ。
京都をよくご存知の方には説明も要りますまいが、五条坂から、清水寺を抜け、産寧坂、二年坂、真葛が原、八坂、円山公園を北に抜けて、知恩院門前を通り、青蓮院、更に進んで三条通りに出ます。東大路をバスで来れば、五条坂から五つ六つ目が東山三条で、右に行けば同地点、若い頃はよくブラブラ歩きましたが、今ならどうでしょうか。ちょっと遠く感じるかも。さて、ここから右に、蹴上の都ホテル(今はウエスティン何とか言いましたっけ)へ向かう両側に、かっては粟田焼の窯元がずらりとあったのです。逆に左に、東山三条の方に向かっても、白川沿いに何軒かの窯元があって、あわせて三十軒以上の陶家が、江戸、明治の頃にはあったと研究者は言います。これが、粟田焼あるいは粟田口焼と呼ばれたものです。しかし、私がよく行った平成の初めごろは、もう、全くそんな雰囲気はありませんでした。三条通り南側の粟田神社参道に「粟田焼発祥之地」という 当時建てられて間もない石碑があっただけです。石碑といえば、青蓮院の門前に、青木木米の記念碑があったように覚えていますが、今でもそのままでしょうか。
さて、粟田焼は、伝承では江戸時代初期、寛永の頃、瀬戸の陶工三文字屋九右衛門という人が来て焼き始めたといい、京瀬戸とか後窯とか呼ばれる茶入も粟田で焼かれたものもあるといいます。今は否定されているようですが、昔は、野々村仁清も一時関係したという伝説があったようです。高麗・阿蘭陀写しや焼き締め、鉄絵などを焼き、17世紀後半には色絵を主流に、18世紀半ばには将軍家御用を受けるなど最盛期を迎えます。同じ頃勃興してきた清水焼とは仲が悪く、清水焼が、粟田焼が使う岡崎土に手を出して、同じような品を焼くのを、停止を求め訴訟を起こしたりしています。そして清水焼が日常の器中心、磁器の生産主体というイメージだったのに対し、粟田は高級品指向で、陶器のみ、磁器には、一部を除き、手を出しませんでした。明治以降は輸出に精を出し、一時大成功しますが、昭和に入り急速に衰え、第二次大戦後は数軒が残るのみとなり、昭和45年に三代伊東陶山の死で、全く絶えたとか聞きます。もっとも、現在、粟田焼を名乗って活動している作家もいるらしいので、絶滅ではないかもしれませんが、粟田焼風(或いは復元)の作品なのか、粟田の地で焼いているのか、ちょっと解りません。
粟田焼の有名作家というと、窯場の関係でそうなるのでしょうが、奥田穎川、青木木米は粟田焼のところに入れる本が多いのですが、この二人は、個性のある作家で、一般のイメージの粟田焼とは直結しません。清水六兵衛とか道八、真葛など、子孫が陶家を続ける家が、清水焼にはあるのに、粟田焼は、穎川、木米は一代で絶え、他の江戸、明治に栄えた有力窯元も、絶家するか窯業から離れ、僅かに存続する一、二の家も、粟田の旧地と全く関係がなくなってしまったというのが、京焼の代表名を清水焼に奪われた原因でしょう。
粟田の窯元は、面白い習慣があって、屋号のほかに、「山(さん・ざん)」の付く商号(商標、通称)を持つ事です。錦光山(きんこうざん)、岩倉山(いわくらさん)、帯山(たいざん)、宝山(ほうざん)、暁山(ぎょうざん)、丹山(たんざん)、東山(とうざん)などのようにです。次回から、これらの山を訪ねたいと思います。
萍亭主