王地山まで来たので、亀祐とは関係ない窯ですが、近所ですから、ついでに寄って行きましょう。い
王地山焼は、篠山焼と呼ばれることもあるので、混乱が生じますが、それとは全く別の、篠山市中の西町にあった窯です。
もともとは、王地山焼が廃絶したのを惜しんで、復興を志した人が現れたたことから始まりました。今村静斎は、篠山の米穀商の家に生まれたのですが、一念発起して京都の5代高橋道八に陶技を習って、明治末年、自宅に登り窯を築いたのです。轆轤の技にも優れ、雅味のある品を作りました。ほとんどが茶の湯道具で、師匠が道八だけに、京焼風で、ちょっと見には変わらない。王地山焼は磁器中心ですが、篠山焼は陶器中心です。天目、三島、白釉、茶褐釉などが多く、染付、青磁もあるそうですが、色絵はありません。静斎は大正11年に夭折し、二代目をなんと、父親の源太郎が継ぎました。これは実に珍しいことで、子の後を親が継いだというのは、一旦隠居してからまたカムバックしたという、これも希少な例を除き、聞いたことがない。源太郎は田野村直入と交遊があったり、風流人で、どうも元々素養があったのでしょう、順調に窯を続けたのですが、この人も昭和10年に歿し、窯は閉じられました。ほぼ四半世紀間だけの窯でした。昭和50年代までは、初代の未亡人も現存し、窯も残っていたという記録がありますが、現在はどうなっているしょう。茶陶として出来が悪くないし、珍しさも含めて、上方の道具商には人気があるようです。東京の茶会でも、花入、建水を拝見した経験があります。
下は、篠山焼の三島茶碗です。
印は、初代が「ささ山」、二代は「さゝ山」」を捺したというので、これは二代目の作でしょう。
明日はブログを休みます。
萍亭主

