先回の続きですが、摂津の三田焼の指導に、欣古堂亀祐が派遣された時、青木木米は不満だったと木米の伝記にあります。
神田惣兵衛が、陶工の派遣を依頼したのは、奥田穎川で、弟子の中から誰かを派遣という話になった時、木米は真っ先に手を挙げたが、穎川は承知せず、亀祐に決めたので、木米は何故か?と師匠に詰め寄った。すると穎川は「お前が研究している青磁は、将来、中国の本歌と区別が付かないものになるだろう。三田で商業生産すると、人を誤らせ、お前は偽物作り視される恐れがある。亀祐の腕なら、その心配がないから、彼を遣るのだ」と言ったというのですが。まあ木米側の伝記ですから。三田青磁の精巧なものは、中国製として通用したという話もあります。
さて、三田から30分ほどで、丹波篠山市に出られます。今は同じ兵庫県ですが、昔は国越えの隣国で、丹波国でした。そこに、やはり亀祐が指導した窯があります。篠山は付近の立杭の丹波焼が有名ですが、これは城下に造られた王地山焼といいます。
篠山藩六万石は江戸中期から青山家の所領で、当時の藩主忠裕は、将軍家斉時代の老中を30年以上務めたという、歴代老中在任記録保持者で、権力者です。忠裕は文政年間、産業として藩直営の窯を開くことを実行、やがて隣国で成功している神田惣兵衛と亀祐を招聘します。これは文政11年(1829)という説がありますが、もう少し早いのでは。彼らの指導で、製品の質は向上し、中国写しの青磁、赤絵、染付、祥瑞写などが焼かれました。花入、水指、菓子鉢などの茶道具から、皿、鉢、文具、酒器、段重など多種の品が焼かれ、上手の品は藩の贈答品に使われ「王地山焼」「篠山製」などの書き銘があることもありますが、ほとんどは無印です。祥瑞や古染付は、書き銘まで写しているので、本物に紛れているともいいます。また、指導者も、殆どの使用土も一緒なので、無印だと、三田焼との区別は結構難しいと言います。天保末期(1843)までが最盛期で、その後は、民間に委託され、明治2年の版籍奉還を機に廃止されました。
昭和63年に、旧地に王地山陶器所として復興され、旧来の技法で青磁、赤絵、染付の品を焼いているということで、ネットで見ると、結婚式記念品、贈答品などの注文を受けるとありますが、私はここに行ったこともなく、陶工や作品など詳細を全く知りません。コロナ時代、現実に訪ねる事はなさそうです。
下の写真は、王地山焼の青磁火入です。
昔、京都の馴染の古道具屋で求めたもので、過去の展覧会のカタログを見せられ、同じ手のものが載っているのを示されたものです。
萍亭主
