先回の続きですが、私が広島の宗鎮流(三谷流)に興味を抱く個人的理由は、こういうことです。
実は、私の家は、先祖は安芸国の住人で、江戸時代は広島藩浅野家に仕えた武士だったそうです。明治維新後に、おそらくは没落して、広島を引き払い、東京に出て来て、その時菩提寺を引き払い、墓地も東京に移して、百五十年の間には、広島の親戚との付き合いも絶え、無縁の土地となっています。窮乏して出て来たのでしょうから、明治以前の家の品など、ほとんど残っていませんが、5代前位の当主に、風流人がいたらしく、伝承では、この人は、江戸や大坂に勤務する役職にも携わり、諸芸に通じたそうで、源氏古流という生花を学び、免許皆伝の巻物を貰っています。その巻物を、しまって置いても仕方ないからと、妻の発案で、茶室の腰張りにしてしまいました。風雅にはなりましたが、ご先祖さまは喜んでいるやら怒っているやら。この先祖が、お茶は宗鎮流をやったと祖父から聞いたことがあります。うろ覚えですが、宗徧流ではなかったと思います。そんなわけで、二回しか行ったことのない広島も、宗鎮流も、何となく懐かしいわけです。
さて、宗鎮流の行く末は、どうなったかというと、5代不朽斎宗鎮の時、明治維新になり、廃藩置県で職を失い困窮します。この時期、茶の湯の家元は大なり小なり困窮しますが、ある本に、宗鎮流の家元は窮死したと書かれるほど困ったようです。末宗広先生の記述だと、広島の永田家に寄寓したとあり、居候生活だったのでしょう。ちなみに永田家は、中国地方の表千家の重鎮だった薬種商だと思います。廣田吉崇氏の「近現代における茶の湯の家元の研究」によれば、6代不休斎宗鎮は、茶の湯を続ける事が出来ず、広島を離れて、神官などになり生活したとされます。明治中期になり漸く茶の湯を教え出したものの、明治32年、京都で急逝し、未亡人咲子は、東京に出て、女学校で茶の湯を教えるなどして流儀を守りました。大正11年には娘の鶴子が、父の書いた「茶会の心得」を出版しているので、茶の湯の一般への広がりがあったこの時期には、多少の復興がなされたのでしょう。例の啓草社の手帳の系譜では、咲子を7代、鶴子を8代としてあげています。末先生の茶人系譜では6代不休斎の後に何の注釈もなく「三谷宗鎮」と7代が書かれているだけで、誰を指すのかわかりません。廣田氏の説では、鶴子は子がなく、養子も第二次大戦で死亡し、三谷家の血筋は絶え、茶の湯は鶴子の高弟菱沼喜美子(雅香)により、三谷流白荻会として引き継がれたとされます。こういう場合、血統に関係なく、後継者が家元を名乗る事があるのですが、遠慮深い性格だったのか、家元引次と称しています。ただ、この人が平成11年に亡くなり、それから二十余年、啓草社の手帳には、三谷流(白荻会)として、系譜は載るものの、所在地が載っていないのです。現在どうなっているのか、私には不明ですが、流儀が守られていることを祈りたい。
どんな内容の流儀なのか、表千家の分かれですから、まず表とそうひどくは変わらないのでしょうが、どの辺が違うのか、如心斎の前に分かれているので、七事式はあるのか、ないのか、私には今のところ、何もわかりません。
もう一つ、我が家には、北村幽庵の二重切竹花入があるのですが、その箱に、宗鎮様御遺物として廣褒に遣わすという、明和五年(1768)極月廿五日の日付の書付があるのです。この宗鎮は、多分、二代の不倚斎宗鎮だと思います。末先生の「茶人系譜」も啓草社のの手帳の系譜も、初代の寛保元年(1741)から、六代まで、死去の年の記録があるのですが、両方とも二代目だけ記載が無いのです。形見分けは四十九日までにするものですから、二代目は明和五年に死んだのでしょう。これは新発見かもと一人で喜んだりして、これが宗鎮流に興味を寄せた原因の一つでもありました。
萍亭主