本題に戻って、茶の湯で絶えてしまったもの、見かけなくなったものを考えているのですが。
この頃、あの流儀はどうなったのかなあと考えることがあるのですが。
その前に、ちょっと、出典が何か忘れましたが、こんな話を。無人島の密林で行方不明になった少年達がラジオで、自分達が行方不明と報じられるのを聞いて、一人が「僕たち、ここに居るのに、どうして行方不明?」というと「そうだよ、向こうが行方不明なのさ」と一人が答える、という話。何を言いたいかというと、私が勝手に、最近聞かないとか、もう絶えた?と考えても、それは私の情報不足か知識不足で、ご本人から見れば、ここでちゃんとやっとるのに!と思うだろうということです。つまり、これから書く事をお読みになって、そりゃ違う、こういう情報があると思われたら、是非、ご指摘願いたく、お教え下さい。
さて、私が今どうなっているのだろうと気になっている茶の湯の流儀があります。それは瑞穂流。
侘び茶は、村田珠光に始まり、武野紹鴎が大成させたとよく言われますが、珠光から十四屋宗陳、宗悟と伝わり、その弟子で、武野紹鴎とは兄弟弟子になる人物を始祖とする流派です。千利休を始祖とする、或いは辿ってゆけば源は利休にたどり着くという流派が99%なのに、利休を経由せずに、珠光や紹鴎に辿り着く流派は実に珍しいのですが、その一つが瑞穂流です。実は淡交社の「新編茶道大辞典」に記載があり、「流派の一つ、紀州日高の城主玉置権守にはじまるという。この十六世(中興二世)玉置一成に『茶道要鑑』がある。安政二年(1855)和歌山の大火に遭い、すべてを失ったという。一子相伝で、他に教授もしないので埋もれたに近い」とあります。私は勿論、この流派の茶会に参じたこともなければ、この流儀の人に会ったこともない、また、茶友に尋ねても誰もこの流儀を知っている人がいませんでした。何故、私がこの流儀に興味を持ったかというと、我が家の先代の蔵書の中に、茶道大辞典に出て来た玉置一成氏の著書があったからなんです。「茶室構造図解」という本です。
序文によれば、茶室構造、茶道炭継、茶道懐石、茶道点法、茶道心得の五巻を、神田の出版社から出す予定で、原稿を預けて置いたところ、大正大震災に遭い焼けて終った、一年後、書店から是非出版したいからもう一度書いてくれと懇願され、老年で以前のようには行かず、教科書を書きたいのに参考書程度であるが、いずれこのバラックを本建築にしたいとあります。この序文は大正十四年五月に書かれているのですが、どういう経緯か、出版は十二年後の昭和11年になっています。残りの四巻は、結局出版されなかったようです。
この本が、少々変わった本なんですね。「茶の流派は三十有余あって、点法も違うが、茶室に流儀は無く
甲の流儀の人が乙の流儀の茶室でも茶は点てられる、茶室は中立である」という理論から始まり「茶室と茶席は別物で、茶席は茶を点てるために臨時に設けた席を言い、茶室は特に茶を点てるだけに使用する室」と定義し、そして「新規に茶室を建てるなら、自由に出来るが、既存の住居を茶室に応用しようと思えば、多少無理な場合と、楽に出来る場合がある」とし、八炉(当ブログ今年10月3日の「八炉って何?」をご参照下さい)の図を示して、「同じ四畳半でも、本勝手に切れる室もあれば、逆勝手に切らねばならぬ室もある。向切や台目にせねばならぬ場合もある。何処に切れば便利か、法に適うか、迷うものだ」とし、その問題を解決するのが、この書であるとします。そして、大小50の茶室を図示しますが、住居の中の一室というコンセプトなので、障子、襖などが出入口で、躙口はなく、給仕口や中柱などもない。しかし台目畳や板入りの室はあります。普通の住居に多い、四畳半、六畳、八畳だけでなく、細長い二畳とか、板入りとか、随分、変な部屋が多いのです。
ちょっと長くなりましたので、続きは次回に。
萍亭主
