まだ私事ですが、先日、埼玉県川島町の遠山記念館に行って参りました。

 噂には聞き及んでいた施設ですが、今まで参観した事がなかったのは、何しろ、我が家から遠くて、足の便が悪い、つい億劫で。今回は、珍しい展覧会があり、子供が運転手をしてくれるというので、重い腰を上げました。我が家から車で1時間10分、考えてみれば、昔、お茶事で浦和の先生にお招きを受けて以来の何年ぶりの埼玉県入りです。長閑な田園地帯で、周囲に住宅もない、大きな蓮池の横に、豪壮な門構え。武家や寺院とも違う、豪農風な長屋門を入ります。ご存知の方も多いでしょうが、日興証券創立者遠山元一氏が昭和8年から2年余の歳月をかけ、生まれ故郷に建築した豪邸です。

 本末転倒ですが、展覧会のことは後回しとして、見学した住宅がなんとも凄い。豪邸は、京都や大阪、松戸や新潟などで見学する機会はありあしたが、料亭、旅館、展示施設などに転用されず、そのままで、しかもほとんど和風というのは、お目にかかった機会が少ない。ことに戦火で焼けた東京では、戦前のこれほどの豪邸は、まずないでしょう。茅葺の東棟、二階建ての中央棟、遠山氏が母のために作った数寄屋風の西棟と三棟が繋がり、二百坪の建坪の見事さはなんとも言えません。天井、柱、窓、一つとして同じ意匠がなく、隅々まで手の込んだ造作、その大工仕事、建具仕事、左官工事の見事さ、ことに左官の仕事、内玄関の土間などの見事さや、蛍壁、錆壁、ガーネットを砕き使用した壁など、私の拙筆ではその素晴らしさは表現出来ないので、未見の方は、是非一見をお薦めします。益田鈍翁のお出入りだった前田南斎が制作した家具があちこちにあり、これまた必見です。

 茶室は、西棟に、八畳台目で、周囲を土間で囲った席があり、ちょっと小林逸翁の茶室を思い出させますが、こちらの方が制作年代は古いわけで、本式の茶室という感じではありませんが、画期的なのかもしれません。

 本式の茶室は、本邸から離れた片隅にあり、まず、本席かと思うような一棟建ての寄付き待合、長露地を辿って、大きな雪隠を備えた腰掛待合、その奥に、長い掛樋の蹲の側に本席があります。寄付きが本邸の中の一室であるのが、よくある形式で、寄付きが独立した一棟というのは、珍しい方です。本席は四畳中板で上げ台目切りの席、下座床で、錆壁の意匠が独特です。回り茶道口で直角に床脇に給仕口があり、水屋が広く、調理、配膳など懐石に便利そうで、その合理的な造りに感心しました。一連の設計はは裏千家の亀山宗月で、この人は、末宗広先生の「茶人系譜」によれば、十二世又玅斎の弟子で「名は松太郎、号吟松庵、又明庵。鑑定に長じ故実に詳しかった。電熱点前を創始。「茶の湯作法」を放送し(NHK から)、かつ出版した(昭和3年)。昭和29年歿」とあります。革新的な人だったのでしょうか。説明されるまで気がつかなかったのですが、突き上げ窓はちゃんとあるのですが、電灯の照明もあり、一つは床の間の落とし掛けの内側仕組まれ、席中は壁にかけられている形で、よく小間で天井から照明が下がっていたりすると、頭をぶつけたりもするが、この席はその心配もない。

 ここで、ふっと今まで考えもしなかった疑問が湧きました。一体、茶室に電灯を仕込んだ最初はいつで、どの席なのでしょう?現在、明治以前の伝統的な茶室で、その後、電灯を仕組んだ席は、どのくらいあるのでしょう?明治大正後に多く作られた数寄者たちの茶室で、電灯があった茶室の割合は?考えれば考えるほど、興味が湧きますが、私には研究する時間持つ力もありません。最近、茶の湯文化学の研究も、随分近代や小さな問題の研究が多くなったと聞きますが、この問題、どなたか若手の方が研究されれば、修士論文くらいにはなりそうですが。

   萍亭主