ちょっと横道に入りますが・・・・

 先日、一年ぶりくらいに、講演を聞きに行きました。何しろ、昨年冬は、インフルエンザを警戒して、外出を控え、今年はコロナ騒ぎで出歩かず、実に久しぶりです。会場に着くと、まず検温、ついで手の消毒、紙コップを渡され、トイレでうがいをさせられ、やっとOK。さてさて厳重と思いましたが、今どこでもこうらしい。

 講演は、最初が「女性が茶道を学ぶ意味」。1980年代からの雑誌(家庭画報、主婦の友等)の記事を分析した研究で、専門誌の研究でないのが珍しい。ただ私の頭では、少々消化不良で、少し腑に落ちませんでした。発表者は若い女性で、今後の研究に期待というところ。

 二番目の講演は、「竹川竹斎 川船の記」です。竹川竹斎は、幕末から明治初期の伊勢国射和(現三重県松阪市)の豪商で、学問を好み、膨大な書籍を集めて私設の図書館射和文庫を作り、先進的な知識を持ち、勝海舟や小栗忠順などの相談相手も勤めたという人物で、隠居後は茶の湯にも深く関わり、裏千家十一世玄々斎の弟子として深く交わり、土地の名産だった萬古焼の復興にも関った人物です。現在も子孫の方が射和文庫を守り、そこに「川船の記」という茶書が残っていて、玄々斎に学んだ点茶法などを記した本ですが、その内の一冊に、茶の湯と関係ない桜田門の変の経緯、情報を詳しく書いている。竹斎は井伊直弼嫌いだったようで、この事件を賛美した狂歌や、茶会記をもじった風刺文などを連ねていて、茶書の中にこの記録を忍ばせたのは、当時、要注意人物としてマークされていたので、家や身の安全を考えていたのだという解説で、面白く拝聴しました。発表者は、長年、天目や、射和文庫の研究をされておられる女性です。

 発表の本筋と違うのですが、質疑応答でこんな事がありました。川船の記の中に、竹斎が京に行き、裏千家を訪問して、午前中は玄々斎に稽古をつけて貰い、午後は、茶室今日庵で、玄々斎を客に、竹斎が亭主となって茶事をした、その時、竹斎は藪内家から借りて来た花入を使ったという記事があるのを紹介されたのですが、それに関して、学者で、裏千家流のO先生が噛みつかれたのです。「これは我々にとって大変な事だ、今日庵というのは裏千家でも大変に重い席で、家元以外使えない席だ、今の坐忘斎家元でも若宗匠時代には水屋にも入れなかったくらいで、竹斎などの他人が亭主を出来る筈がない。これは空想茶会記だと思う。こんなバカな事がある筈がない」と、かなり熱くなられたご様子でした。しかし、司会者と発表者から、これは今日庵文庫(裏千家の機関)からも公開されている記録だから、裏千家も認めているわけで、問題はないという説明があり、「え?!」と驚かれたあと、でも「にわかには信じられん」とブツブツ言いながら着席されました。なんとなく、家元の権威が傷つけられたように感じてのご発言だったようにも私には感じられたのですが、これに関して、私はとやかく言う知識もありませんが、直感的に言って、そうであるなら、昭和以降の風習だろうと思います。家元の権威というものは、江戸中期の家元制度の確立頃から、徐々に打ち立てられて行きますが、肥大化したのは昭和になってからだと思います。権威の一面には、独占化ということもあり、一子相伝とか、家元でなければ出来ない行事とか、やれない作法とか、いろいろ出て来るわけですが、それと過度の尊敬があいまって、家元の神格化につながるのでしょう。

 後日、裏千家の内部に詳しい人に尋ねてみたところ、「確証は何もないけど、淡々斎くらいからのことでしょう」と、暗に、円能斎までの苦難のの歴史の中では、あり得なかったろうという雰囲気でした。

 今日はこの辺で

    萍亭主