さて、話を元に戻して、近藤重蔵の父右膳守知こと茶人知新庵については、ほとんどわかりません。墓碑銘と近藤正斎全集の近藤重蔵事績考の少ない記事と、右膳の著作の序文などから推量する以外ありません。
それによれば、石見国の郷士福庭家に生まれ、経緯は不明ですが、先手組与力近藤家の婿になった。妻の悦は、子供の年齢から考えて、結婚した時、14、5歳で、すぐ妊娠したのでしょう。早婚ですが、当時としてはそう珍しくない。この時、右膳は何歳かわかりませんが、18から25くらいまでと考えるのが妥当しょう。22歳で悦が死んだ後、右膳が再婚したのは、遅くも重蔵の生まれる1、2年前とすれば、前妻の死後、2、3年後に再婚したのでしょう。右膳がいつ近藤家の家督を継いだかも不明ですが、家付娘の死後に再婚して養家に居座っているところから、悦の死ぬ前には家督を継いでいたのでしょう。役職は義父と同じ御先手組与力(下士官)で、屋敷もそのまま鶏声ヶ窪の先手組組屋敷の一画でした。事績考には守知が「知新庵と号し、文武を兼ねて修め、最も砲術に長ず。居常詩歌諷詠を専らにし且つ茶道を好み、其名近隣に顕る。著書数種あり」とだけあります。砲術に長けていたというのは、職務が御先手筒組(鉄砲隊)だからでしょう。文学を好み、茶人であるということは伝えていますが、評判が近隣に響いたというのは微妙な表現で、川上不白のように、江戸中に知られる、茶の湯をしない者でも名を知るというほどではなかったのは確かです。
右膳が、茶を学んだ師は伊丹宗朝で、右膳は自著の自序で、宗朝は「弱冠の昔より茶道を嗜めること七十有余年なりき。傳を覚々如心両師に受け、道を京に索めて(もとめて)、名や東都に冠たり」と書いています。末宗廣先生の茶人系譜の記事は「江戸の人、号黙守庵・似旧斎・萩軒・似烏斎、『棚物飾并長板図式』『伊丹宗朝伝来茶の湯式』の著書がある」とあるだけで、生没年も、武家か町人かもわかりません。宗朝の著書にも序文や跋文がないので手がかりが無いのです。しかし、覚々斎が死んだのは享保10年(1725)で、それ以前に学んでいるというのは、右膳よりかなり年上です。弱冠(20歳)より七十年以上茶の湯をしていたという文章通りなら、九十の長寿を保ったことになります。右膳が何時ごろ入門したかは判りませんが、天明五年(1785)に本を書いた時、仮に茶道を始めて15年くらいとしたら、再婚した時位からの入門で、いずれにせよ宗朝晩年の弟子でしょう。
宗朝は、おそらく専門の茶人、つまり、宗匠業で、表千家の系列から言えば、川上不白の先輩になります。江戸から京へ行き、茶の湯を修めて、江戸に戻り成功したというところは、川上不白とよく似ています。宗朝と不白が面識があったかは不明で、右膳もそうですが、不白と右膳の茶の湯活動時代は、ほぼ重なります。江戸の千家の茶の湯、特に表千家の茶の湯といえば、川上不白一門だけしか思い浮かばずというのが一般的ですが、実は、伊丹宗朝、近藤知新庵と続く系譜(末先生は江戸城台所頭の磯谷清左衛門という茶人を宗朝の系譜に加えています)が活動していた、勿論この他にも名を残さなかった多くの茶人が、江戸の茶の湯の隆盛を下支えしたであろう事を、忘れないでいたいものです。
さて、右膳こと知新庵の、目に見える唯一の業績である著書「茶道八炉図式」、この本は自序によれば、天明5年(1785)仲秋に書かれていますが、これは右膳がまだ先手組の現役時代で、出版されたのは、それから26年も後の文化8年(1811)9月。右膳が隠居してから21年後です。何故、この本はすぐ出版されなかったか。正直、売れ筋の本とも思われないので、引き受ける書店がなかったか、自費で出すほどの資金力がなかったか、表千家から苦情があったとも思われません、点前に関する本の執筆には、いろいろ煩かったという説もありますが、江戸の武士階級に口出しはしないのでは。右膳は同じ年に、この本の序文を重蔵の師山本北山に依頼していますから、出版する気だったのは確かです。いずれにせよ、長く眠っていた本が、何故、この時点で出版されたか?私の小説的想像ですが、これは、重蔵の父へのプレゼントだったのではないかと思うのです。老い先短くなって来た父へのプレゼント。重蔵は、三男の自分に家督を継がせてくれた父に感謝していた筈です。有名人であり、江戸の文化人との交流も深く、何より御書物奉行という権威の重蔵が動けば、書店の方も大概の無理は聞いたのではないでしょうか。出版後の5ヶ月後、右膳は亡くなります。
いよいよ「茶道八炉図式」の内容に触れたいと思いますが、それは次回に。
萍亭主