江戸時代の茶道関連の書に、利休が朝鮮戦役の頃、生きていたと書かれたものがある問題。
先学は、これは筆者の勘違いか、歴史知識の浅さが、伝承を誤ったのだとして片付けています。私も同感ですが、伝承の誤りについては、こういう事があるんじゃないでしょうか。九州には、秀吉は島津征伐の折にも行っています。この時は利休も同行しています。伝えられる三件の話は、全部、九州がらみの話で、島津征伐の折の九州在陣を、朝鮮の役の九州在陣と混同したんじゃないかと。
「石州三百箇条」の、火灯口を考案した話は、舞台を名護屋と限定しているのですが、島津征伐を朝鮮の役と最初に思ってしまうと、場所は名護屋と連想するからの間違いでしょう。
「不白筆記」は、場所が博多になっています。名護屋は秀吉にとり、朝鮮の役では一番因縁の場所ですが博多は島津征伐の折の秀吉と利休にとって、いろいろと茶の湯の逸話も残る、縁の深い場所です。ですから、島津征伐の折の話として、十分成り立ちます。それが何故、混同したか。多分、テーマが高麗囲いの話なので、高麗攻め(朝鮮の役)の時と、伝承が勘違いされたのだと思います。高麗囲いの名称は、記憶が定かでないので、あまり責任は持てませんが、朝鮮の家屋の仕切り方からヒントを得ているので、そういう名になったというのを、どこかで読んだか聞いたかした様な気が。そういえば、全くの余談ですが、躙口も朝鮮の家屋からヒントを得たという説が、真偽は別としてもありましたっけ?
「茶道望月集」の山崎妙喜庵の茶室は、朝鮮の役から京都に引き上げる秀吉が、利休に命じて建てさせたという話、勿論、妙喜庵の茶室待庵は、天正10年(1582)に、山崎城にいた秀吉が利休に建てさせたというのが通説ですが、建築年については昔から諸説あり、定説はないそうで、これを島津征伐の帰途という伝承もあって、更にそれが間違って伝えられたと見るべきでは。江戸時代の茶書に載る逸話類は、面白いけれど結構危ない話が多く、学者には見向きもしない人も多いのですが、中村先生は、きちんとこの辺も考証されていて、その観点には敬服します。
さて、素人の反論を延々続けましたが、中村先生が読まれて反論されたら、一蹴されそうですが、ま、先生がこんなブログをご覧になる事はありますまい。しかし、先生の「利休は切腹しなかった」説は、斬新ですが、千家には喜ばれない論だと思いますね。権力者秀吉に屈せず、茶の湯の道を歩んだ聖者というイメージは、敢然と腹を切ったことにあると言っても過言ではない。それが、死んでおらず失踪し、再び秀吉に仕え、その後の経緯はともかく、死の最後の模様もわからないじゃ、イメージダウンになりそう。だいいち、あの格好良い辞世の偈や和歌は、何のため? まあ、偈は、切腹当日書いたわけでなく、数日前に書いたと言われているので、あれを書いたからって、死ななくてもいいわけではありますが。ともかく、茶の湯の学界は、中村先生の論に立ち入らないのではと思います。触らぬ利休に祟りなし。
ところで、利休切腹の原因として、よく挙げられる理由、中村先生は全く触れていませんし、多くのまともな(?)学者は触れないが、小説家系は大好きな話題に、次回は触れてみたいと思います。
萍亭主