先回の続きですが、秀吉と利休の間で、茶室で、「その置き合わせはどうかな?」「いえ、これでよろしいのです」とか、「こうするほうが良いと思うが」「いえ、それはよろしくないと存じます」とか、今風に言えば、そんなやり取りが二人の間で積み重なって行く間に、どこかで調和の歯車がずれた、一旦ヒビの入った人間関係は、案外修復されにくいものです。
導火線は茶の湯だったとしても、爆発した火薬は、やはり大徳寺山門木像事件でしょう。山門を改修してくれた施主に、感謝の意を込め木像を山門にあげようと、どうしようと寺の勝手でしょ、というのは現代の解釈で、当時は無礼、不敬、不届、僭上慢の尺度は、独裁者側が自由に決められるので、不敬とされればそれまで。どうも寺としては、事前に政府の許可をとっていたようですが、独裁者が怒れば、許可したじゃないですかと、文句を言っても駄目。京都管理責任者の前田玄以は、不行届で譴責を喰らったようです。利休切腹に先立って、この木像が一条戻橋で磔になったのを見聞した記録によれば、その側には、罪科を書いた立札があって、でも残念ながら、いろいろ面白い文言があったとしか記録がなく、本文が残されていれば、思わぬ真相が判明したかも、と研究者残念がるのですが、それほど大した事が書いてあったのかどうか。秀吉の怒りは、自分に関してでなく、勅使の通る門の上に、という尊王の精神からの怒りとする説が、戦前などにはあったようですが、秀吉を賛美しようということからで、最近はないようです。
もう一つの爆薬は、「茶器の販売に関する不正利得疑惑」です。利休が新しい茶器を不当に高値で販売したとの告発なんですが、新しい道具とは、長次郎の茶碗や与次郎の釜などでしょうか。茶道具が古いものの方が、新しい品より価値がある風に見られる価値観は、今でもなくはないですが、けれど、美術品の価値を決めるのは売り手と買い手であり、どう決めようと自由な筈で、利休がどんな値をつけようと、現代の道具屋さん同様、咎められるべきじゃない。しかし、秀吉の怒りは、多分、新しい名物が出来ることへの怒りだったのでは、と私は想像します。茶器で値打ちのあるものは名物道具であり、名物の価値は、誰が所持し、どう伝来したかで決まる。関白秀吉が所有するか、下賜したような品が名物であって、それと同じような高値(かどうかは兎も角、相応に高価な)で市場に流通する、いわば利休名物が出来るのを嫌った、許せなかったのでは。当時の記録に「売僧の頂上」と書かれるほど、この事件は、実際に相当に世上に噂されたことなのでしょう。
ともかく、この二つの爆薬を誰が秀吉に告発したのか、それは小説家なども好んで推理する題材ですが、煽ったのは誰にせよ、独裁者の感情は、誰に遠慮なく爆発させられますから、その振幅の大きさからも、激しさからも、ヒステリックに見える切腹という処断も不思議でもないのでしょう。その導火線になったのは、茶の湯の上の相互不信の増幅だったんだろうとというのが、私なりの結論で、なんだ、別に今までの多数説を容認しただけで、平凡な結論でどこが面白いと言われるかも知れませんが、この問題に関しては、新奇な説は立てにくい、オーソドックスでいいと思ってます。秀吉の個人的な感情の振れ方が、普通には想像のつかないほど大きく、それが最も影響を及ぼしたとは思いますが。
利休の切腹に関しては、まだ新しい論がありますが、それは次回。
萍亭主