「大正名器鑑」を編纂した高橋箒庵は、全く凄い人であり、幸せな人だったのだろうんと、つくづく思います。
凄い人というのは、その精力的な活動、知識、茶の湯への貢献の大きさなど、誰でも認める事ですが、私が「幸せな人だな」と思うのは、次の二点です。一つは、後半生を自分の好きな茶の湯と他の趣味にだけ使い、それでなお、経済的に恵まれ苦境に立つ事なく一生を終えた事です。もう一つは、こんなに名器に触れた経験を持った人は、歴史上いないだろう、という事です。松平不昧でさえ、時代の環境から言えば、これだけの数の名器を実見することは出来なかった。当時の数寄者、茶匠でも、誰も及ばなかったでしょう。茶器は本来茶席で披露されるもので、大正名器鑑に載る茶器全てを茶会で見る機会は、益田鈍翁であれ、馬越化生であれ、誰にもなかった筈です。箒庵は、それを全部見た、触って確かめた。戦後、茶陶の研究者、専門家が数多く誕生して、また名器が美術館など公共機関に多く入ったこと、各美術館同士の連携研究などもあり、数多くの名器を実見している学者もあるだろうとは思いますが(例えば林屋晴三氏のような)、でも、箒庵に及ぶかどうか。
考えてみれば、私なども、箒庵の時代の一般茶の湯愛好家と違い、遥かに多くの名器を見ているかも知れません。それは茶の湯関連の展覧会が、戦前と違い多く催され、美術館も多く出来たからです。当時の人より幸せなのかも知れません。ただ、やはり、ガラス越しに見るだけというのは、写真集の多少の3D化みたいなもので、やはり手に取ることの出来ないのは大きなハンデで、いくら数を見ても、目利きにはなれそうもありません。全てを手に取って見た箒庵は、その記憶力や、学識もあいまって、名うての道具商さえ恐れ入るほどの目利きとして知られました。しかし、茶道具の美術的価値と、その経済的価値との関係は、なかなか難しいものがあります。昭和になってから、箒庵は、その所蔵品の一部を売り立てたのですが、買った時の値段からは、ずっと安くしか処分出来ず、かなりの損失が出た。日頃、箒庵には頭の上がらなかった道具屋たちが「大将、目ぇ利かん、ですな」と陰口を叩いて溜飲を下げたという有名な逸話があります。箒庵自身、各家の売り立ての世話人などをよく勤め、セミプロの道具商のような一面もあった筈ですが、茶道具の値段という魔物には、なかなか太刀打ち出来なかったのでしょう。
もう一つ、箒庵の関わった茶会は、名器、古い道具が当たり前の茶会でした。江戸時代初期以降のものなど、まず出てこない、例外は大野鈍阿などのお抱えの職人の製作したもので、我々が今、有難がる仁阿弥や保全などの江戸後期の名人の作でも、まず使われません。稀に、名器古物の出ない茶会に遭遇すると歯牙にもかけていません。もし箒庵が現代の茶会に来たら、大師会光悦会を除き、家元クラスの茶会でも興味を示さず、月並茶会など、目もきかない、じゃない、目もくれないでしょう。でも、そういう茶会に何の感興を催さないということも、ちょっと不幸じゃないかと、私は負け惜しみ的に思うのですが。
萍亭主