蜀山人は狂歌の第一人者でしたが、寝惚山人の筆名で狂詩も多作し、その世界でもトップスターでした。
狂詩は、要するに漢詩のパロディ版ですが、和歌のパロディ版である狂歌を作るのにも、高い才能と教養が要りますが、狂詩は、それ以上の学識がなければ作れない。今、令和の時代、川柳は作られ続け、庶民のユーモア発露の道具として生き残っているのに、狂歌は恐らく作る人は稀で、いわんや狂詩に至っては、皆無と言っていいでしょう。つまり、川柳は文学的価値は低く、その時代性への風刺精神が突出したものです。五七五の形式も誰でも作りやすいのに、狂歌や狂詩は、文学性も高く、それだけ作りやすくない。。今更、過去の遺産の狂詩なんてなにさと言われるでしょうが、読んでみると面白いところもある。と言っても私は、狂詩の選集を一冊読んだことしかないんですが、その数少ない中に、茶の湯関係の詩が、三つ四つ出て来ます。読んでみると、やはり当時の茶の湯の状態を伝えていて、知っておくのも全くの無駄でもないかとご紹介してみます。ただし、蜀山人の作には、茶に湯に関するものはありませんが。
まず、銅脈先生作の題名ずばり「茶湯」、五言絶句です。
蟲鳴正午腹 虫の鳴く正午の腹
會席一何遅 懐石いつに何ぞ遅き
伝来掛物咄 伝来の掛物の話
咄長客若睡 話長くして客眠るがごとし
昼になり、客の腹は空いているのに、一向に懐石にならない、亭主の床(掛軸)の自慢話が長すぎて、客は居眠りをしそうな状態という、無邪気な笑いです。銅脈先生は、讃岐生まれで京都の公家侍の養子になり、聖護院宮に仕えて本名を畠中正盈と言いました。蜀山人とと同時代の人で、東の寝惚(蜀山人)、西の銅脈と並び称された狂詩の大家です。京都人で茶の湯が好きだったのでしょう。もう一つ、「茶の湯」という七言絶句を残しています。
一服薄茶夜咄時 一服の薄茶、夜咄の時
共衝悪態謗人奇 共に悪態をつき人を謗る(そしる)こと奇なり
炭流煮止竹棨暗 炭は流れ煮えは止んで竹棨(ちくけい)暗し
月照鉢前客去遅 月は鉢前を照らせども客の去ること遅し
夜咄茶事で、薄茶になった時、一座皆で人の悪口を言い、けなすのが奇妙だ、炭も燃え尽き勢いが悪くなり、釜の煮えも落ちて、燈明も油がつき暗くなって来た、月は蹲を照らすほど夜も更けたが客はまだ帰ろうとしない、というような情景。茶事で堅苦しい濃茶が済むと、薄茶石は談笑の場になるという慣行を表していますし、「茶人は席中でやたら褒めるくせに、一歩茶室を出ると悪口を言う」と明治期に書かれた言葉がありますが、茶人は意外に口悪で他を貶すという、この詩の場合も、茶の湯関係への悪態、他の茶会や、茶人への悪口でしょう。こんなところに、茶の湯以外の世界の人からの批判もあったのかもしれませんし、銅脈先生も、その辺を風刺したのでしょう。
江戸の狂詩作家に方外道人という人があり、「江戸名物詩」という、江戸の名店それぞれをを題材にした
狂詩を作っていますが、その中に新右衛門町(現在の日本橋二丁目辺)にあった「本惣」という茶道具屋を題材にした詩があります。この店は、松平不昧公へも出入りしていた有名店でした。
青磁染付高麗物 青磁に染付、高麗物
備前瀬戸古唐津 備前に瀬戸に古唐津
所持道具多名品 所持の道具に名品多し
鑑定当今第一人 鑑定は当今の第一人
一流茶道具屋の様子は、この頃になると、現在とそう変わらないようです。今回はこの辺で。
萍亭主