江戸の天才、蜀山人(大田南畝)の残した一文、田宮仲宣が著書「愚雑俎」中で展開した、茶道を謗るの原文になっているものは、自撰の「巴人集」という、狂歌、狂文の集に収められています。
特にタイトルもなく、箇条書きだけで、「愚雑俎」にある「言行一致せざるもの云々」の大袈裟な文章はなく、以下のように箇条書きで始まります。
「一 上下を着ておごめかしたるは田舎の婿入のごとし
一 炭取を持出るは面箱持のごとし
一 炉をのぞきて炭を誉めるは鍋のぞきに似たり
一 草履を持ちてにじり上るは草稼(そうか)の床入りのごとし
一 中立して待合に出るは市令の腰掛にで内済をはかるがごとし
一 濃茶のかたまりは芋虫を踏みつぶしたるごとし
秀吉、信長、この道をたたんで(原文のまま)国を亡せり、亡国の余風、なおいま盛んなり
右、難波にて南畝先生作」
前々回ご紹介した「愚雑俎」の文と比べると、すっきりしていて、江戸前とでもいいましょうか、そして、帛紗さばきが褌の虱を探すようだという汚い例えの条文はありません。雑炊なべという余計な言葉もない。なお、草稼は惣嫁とも書き、夜発と同じで売春婦のことです。田宮仲宣は、文章を少し改竄して自著に載せたのでしょう。箇条書きの前文は、田宮が創作したのでしょう。道理で、批判内容が前文と箇条書きでは内容が一致しません。
南畝自作の箇条書きの後の文、「秀吉、信長云々」も少々過激な表現ですが、茶の湯が盛んなことは認めているようです。なお「たたんで」は「たしなんで」か「たのしみて」のミスプリでしょう。また、「愚雑俎」が記す、酒を飲んだ後の薄茶はいいもんだという言葉は、「言われき」とあるように、蜀山人の発言でしょう。大酒飲みだったという蜀山人らしい言葉です。蜀山人は、享和元年(1801)から一年間、役人とて大坂(難波)で勤務していました。この頃の作であり、田宮と知りあったのも、この頃のことでしょう。
蜀山人は、江戸時代、傑出した人間の一人だと思います。その文才の閃きの凄さ、何事にも通じた博学な知識人、驚くべき博覧強記、精力的な文筆活動、そして、江戸っ子らしい洒落っ気と暮らしぶり、私は大好きです。単なる狂歌詠み、遊蕩人ではない、中年までは小普請組御家人(無役の将軍にお目見得出来ぬ武士)
として気ままに文筆生活を楽しみますが、四十六歳という当時としては老年近い年齢で、幕府の第一回学問吟味(寛政の改革の一環として始められた人材登用などを目的とした試験)に、首席で合格という力を発揮、勘定支配役に登用され、死去まで官僚として活躍しました。余談ですが、この時、並んで首席合格したのが
遠山景晋、あの遠山の金さん(景元)の父で、長崎奉行、勘定奉行として活躍した人です。
一流のインテリでもあり、風流人でもあった蜀山人は、何故茶のを嫌ったのか、茶の湯に詳しくなかったのか、本当に嫌いだったのか?続きは次回に。
萍亭主