番付「東都茶人大相撲」を見て、私がつくづく感じるのは、後世に名が伝わるということは、大変なことなんだなあということです。

 江戸千家勢が、優勢なのは確かですが、個人の名前を見て、知っている名前が殆どない。幕内に並んだ人でも、前回ご紹介した人くらいしか、どういう人かわからない。私が江戸千家に詳しくないせいでもなさそうで、他の流儀の人たちも、知らないというか、調べてもわからない。大体、わからない茶人の名前は、末宗広先生の「茶人系譜」を頼りに調べるんですけれど、該当する人がいない。わずかに一尾流の二人が、姓だけは一致しますが、「系譜」には庵号しかなく、師匠の殁年から、この時代の人かなと推測出来ても、果たしてどうか、人物像も分からない。実は、石州流と宗徧流に関しては野村瑞典先生の「歴史と系譜」という労作があり、やたら名前が載ってはいるんですが、索引がないので、調べるのは大変すぎ、しかも系譜に名があるだけで、どんな人かわからない。手を上げました。幕内に並ぶ茶人たちは、生きている頃は、少なくとも茶の湯の世界では有名人だったでしょうに、儚いもんだと思います。川上不白や松平不昧は特別な存在なんだなと思わざるを得ません。

 さて、番付の中で、知った名前を、あと3人見つけました。番付の総欄の外に特別に一枠つくり、そこに名前を記す、「張出(はりだし)」と言って、別格、或いは同等という意味になるやり方で、本家の大相撲番付では、この制度を平成6年に廃止してしまったので、今はありませんが、この東都大相撲では、東西に一人づつ、張出前頭がいます。東が野村休盛、西が鈴木林碩です。野村休盛は、先祖は利休の弟子だったと伝え、徳川幕府初期から御数寄屋頭を務める家柄、時代的に七代目か八代目の休盛でしょう。鈴木林碩も代々御数寄屋勤めの家柄で、名前に林の字を用います。この二人を張出にしたのは、御数寄屋坊主という、茶の湯専門家で、一般の弟子もとる、いわば半官半民の存在なので、中央の欄の武家茶人にも入れず、東西の町の宗匠の枠内にも入れず、このような形態を取ったのでしょう。ちなみに野村家は片桐石州に入門し石州流となり、今も石州流野村派として残っています、鈴木家は石州流怡渓派の江戸の家元格でした。

 もう一人は、中央欄の最下段に一際大きく、勧進元の肩書で一人書かれている、片桐宗猿です。勧進元は興業責任者で非常に特別な存在、その地位と評判の高さが示されています。宗猿は本名信方、片桐石州の長男ですが、妾の子であったため別家して千石の旗本になった下條康隆の六代目で、弟子に井伊直弼こと宗観を持ったことで、後世に名が残ったとも言えます。この宗猿の横には、差添として、やはり一人の名が大きく書かれています。差添とは、介添、助手、副という意味で、本物の大相撲番付にも必ずあった重要な役、しかし、そこに書かれた長谷川某という人が、どんな茶人か、さっぱりわかりません。当時は宗猿に次ぐ有力な武家茶人だったでしょうに、その地位も名声も今では誰も知らない。やはり、後世に名が残るのは容易なことじゃない、その道に子孫が衰えずに続くか、偉大な茶人と何かの縁があるか、自分が偉大な業績を残すか、はて難しいことです。

  萍亭主