「通言惣籬」での主人たちの茶の湯の会話は、まだまだ続きます。
艶二郎が茶入に関しての自慢話を終えると、悪井志庵が自分の見た道具話を始めます。「橋場で、江月の横一行を見やした。一片雲自西自東(いっぺんのくも、にしよりひがしより)という語さ。表具もようござりやした。天地はやっぱり、ふとしげで、風帯一文字は安楽庵さ」と話します。江月は大徳寺156世江月宗玩で、今に至るまでその墨跡は人気があります。私なんか軸を拝見しても、読むのに懸命で、表具の鑑賞にまで、なかなか神経が届きかねるんですが、志庵は、ちゃんと見ているようで、ふとしげとは、太いしげ糸(繭の外側から繰り取った粗末な絹糸)で織った絹布だそうで、安楽庵とは、安楽庵策伝所持と伝わる名物切です。前回の艶二郎の仕覆に対する説明も加え、この頃は今よりも遥かに、裂には関して、関心が高いようです。不昧も「古今名物類聚」で、名物裂をとりあげていますし。さて、橋場は浅草の橋場には、吉原の遊女屋の別荘が多く、それらのどこかで見たという感じでしょうか。
「俺に譲っちゃくれめえかの」と艶二郎が、いかにも道具好きそうに言うと、「手放しはしますまいよ」と志庵が答え、喜之介も負けじと、自分が見た道具の話を始めます。
「角町の惣六が高麗の御所丸金海を持っていましたっけ。品川の万千が持っている松花堂の布袋は、とんだいい物さ」この話の中で、角町は、吉原五丁町の一つ、惣六は、吉原遊郭で初めて芸者の見番を作った大黒屋庄六、十八大通の一人で遊女屋の主人をモデルにしているそうです。御所丸と金海と二つの高麗茶碗を持っていたのか、この書き方だと、京伝、わかって書いているのかなと不安になりますが。品川の万千とは、品川の干鰯問屋、村田屋の主人で、俳号帆船(はんせん)、十八大通の一人に数えられ、賀茂真淵の弟子で国学者村田春海の名でも知られる平四郎がモデルと言われます。
さて、ここで、喜之介が「万千と言えば」と、品川遊郭の話に話題が移り、以下本領の
遊びの話題が続き、やがて三人は吉原に泊まりがけで遊びに行き、ガイドブック並みに、吉原でのやりとり、情景が描かれ、他の客のエピソードも交え、翌朝、三人が帰宅するところで終わります。
さて、全体が女遊びの話で、何故、急にここだけ茶の湯の話を京伝は入れたのか。それは、この当時、茶の湯が町人の上流階級に流行し、トレンドであったからに違いありません。洒落本は現代風俗(当時の)の流行の最先端を描くのが基本です。川上不白により広がった茶の湯は、不白が晩年に差し掛かったこの頃、こんな形で江戸の町に定着していた、その一つの証左に、この本はなると思います。
萍亭主