松平不昧が、茶の湯に関して高い見識を持ち、優れた茶人であったというのは常識ですが、さて在世の頃は、その知名度はどの程度のものだったか。
川上不白は、江戸で誰知らぬものはないと言われるほど、つまり茶の湯と無縁の人でも名を知っているという有名人でしたが、同時代の不昧は、そこまではいかなかったでしょう。だいたい、不昧の人気が急上昇したのは、明治以降の数寄者の茶の湯の世界で、その道具に対する美意識、その茶風が共感され、不昧の所持、伝来、好みなどが珍重され、もてはやされたからだと思います。殿様の不昧は、庶民から見れば無縁の人で、当時の茶の湯の大衆化にも特に影響を及ぼしたわけでもありますまい。ただ18世紀後半頃から、武家階級と町人階級の差は、ぐっと縮まります。町人との交際は、経済面でも、俳諧や狂歌などの文化娯楽の面でも、欠かせなくなっている時代です。不昧は武家階級でもトップの殿様クラスですから、当然限界はあったでしょうが、伝承では、変装微行して巷に出ることも多く、世情によく通じていたと言われます。文化3年(1806)に隠居して自由な身になってから一層庶民的になったとも伝えますが、しかし、道具屋などを除けば、茶の湯の上での付き合いは、上流階級に限られています。ただし、茶の湯が一般に浸透するにつれて「松江の殿様は茶の湯がお好きで名器をお集めになっているそうだ」程度の噂話や評判は、あったのかもしれません。
平戸の殿様、松浦静山が書いた「甲子夜話」に、こんな逸話が出ています。ある日、街のある茶屋に、ぶらりと不昧が立ち寄り、囲炉裏にかかっている釜を見て「これこそ正真正銘の芦屋釜よ」と言って帰った、店の親爺は驚きましたが、これが町の噂になり、あの不昧様がお褒めになった釜があるそうだと、見にくる客が増え、おかげで店は大繁盛、喜んだ親爺は、不昧の屋敷に伺い、箱書きをして頂きたいと頼みます。不昧は承知しましたが、今日は気がのらないからと断って返し、その後、何度来ても、今日は忙しいとか、都合が悪いとか言って、とうとう箱書をしませんでした。筆者静山によれば、これは、実は釜は芦屋でも何でもなく、戯れに言っただけで、箱書をすれば失鑑(間違った鑑定)になるのでしなかったのだ、というのですが、何故こんな悪戯をしたのか、まさか、自分の知名度を測りたいとしたわけでもありますまいから、殿様らしい一時の気紛れなのか。何にしても、これを見ると、不昧とその頃の世間との距離感や、不昧の知名度が窺えます。
萍亭主