川上不白は大変精力的で、健康な人だったのでしょう。忙しい一生だったろうと思いますが、不白の年譜を見ていると、目につくのは、旅の多い事です。江戸の旅行ブームは、十返舎一九が「東海道中膝栗毛」を書き出した19世紀初頭からと言われますが、不白はその少し前から、よく旅をしています。

   茶人も遠州や石州など武家茶人は公務であちこちに行っていますし、古くは利休も秀吉の遠征に従って、九州や小田原に行っていますが、普通は一、二回の上方と江戸の往復くらいか、宮仕えであれば、主君の領地(城下町)に行くことがある程度で、一燈宗室が阿波に行ったのが目立つ位です。そういえば、宗旦四天王の一人、杉木普斎は、御師という職業上、諸国を回って茶の湯を広めたともいいますが。

   不白は、如心斎の死の前後、京と江戸の間を何度も行き来していますし、井上如雪氏編緝の「川上不白」の年表を参照すると、安永3年(1774)には京の本法寺を訪ね、翌4年にも上洛して、近衛家など公家の家をはじめ、諸処で茶会をしていますが、この時、別の資料では、大坂や堺にも行っているようです。その翌年の夏には日光東照宮に参拝、安永9年(1780)には、九州の豊後竹田に行っています。城主で弟子の中川修理大夫の招きでしょうか。ただ、年表に、この時「田能村竹田、頼山陽等と交遊あり」と書かれているのは、何かの間違いでしょう。田能村竹田は豊後竹田の人ですし、山陽もこの地に無縁ではありませんが、竹田はこの時まだ3歳、山陽は生まれたばかりです。天明4年(1784)には、伊豆韮山、熱海に遊び、韮山では利休も切ったという竹を切り花入を作っているそうです。韮山の代官、江川家(あの反射炉で有名な)と懇意だったとか。翌年は越後高田に行っています。そして、70歳の天明8年(1788)、日蓮宗の聖地身延山に参詣しています。あの山坂を70歳の老体で行くとは大したものでvす。そして、寛政9年(1797)、嗣子の自得斎と同道して、川上家発祥の地、紀州新宮に旅し、一族の供養塔を建立しています。もう79歳、新幹線や飛行機がある現代でも、旅行が億劫になる年齢、馬や駕籠をフルに使うとしても、当時の旅の大変さは老人にこたえた筈ですが、不白はほんとに丈夫な凄い人だったのでしょう。当時、茶人と風流として同一視された俳人は、芭蕉以来、行脚、つまり旅行が流行でしたが、茶人であると同時に俳人でもあった不白は、旅行には抵抗がなく、旅好きだったのかも。

  旅行とは違いますが、不白の最晩年、文化元年(1804)に、江戸向島に、今も残る百花園が開園します。ここは、当時の江戸の一流文化人、いわゆる文人墨客が、開園に賛助し、来遊した場所で、会員制文化サロン的色彩も帯びています。その中に、不白の名があります。茶人兼俳人として、メンバーの中では、おそらく、最高齢者だったでしょう。開園者佐原鞠塢のご子孫は、今でも江戸千家の門弟です。

      萍亭主