川上不白ほど、多数の弟子を育てた茶人はいないでしょう。伝承の一万人という数の真偽はともあれ、大変な数です。そこまで、慕われたという事は、どんな魅力が不白にはあったのか?
実は不白の茶の湯に関する逸話は、あまりないのです。不白自身が、如心斎の息子啐琢斎に与えた書、つまり有名な「不白筆記」ですが、その中の師の如心斎との挿話などはよく引用され、不白の茶の湯に関する考え方を伝えているのですが、しかし、不白と弟子との間の挿話は、ほとんど聞きません。ですから、以下は私の想像でしかないのですが。不白は大男だったといいます。五尺七寸、二十貫余(172cm 72kgくらい)といいますから、その頃のちょっとした相撲取りくらいあります。「脂ぎった大坊主だが、茶室に入ると見違えるように、しおらしくなる」と如心斎が評したといいますが、私は、大柄でも、カリスマ性に満ちた、威厳ある厳しい人柄、ではなくて、誰でも近づきやすい、愛嬌があり、包容力のある人物だったのではないかと想像します。これだけ多数の人がついてきて、江戸千家と後年呼ばれる大きな流れが出来たのは、単に教える内容が斬新で素敵だとか、教え方が上手だとか、勿論、そういう面も優れていたろうとは思いますが、やはり、誰をも惹きつける魅力のある人柄だったのでは。そして、俳人としての洒脱味、人間味のある、面倒見のよい人だったのではと、茶の湯以外のエピソードから、そう推し量るのですが、このエピソードについては、いずれまた。
ともあれ、根底には、千家の開発した、七事式を含む新しい平易な茶の湯が、固定した作法の難しい武家茶道を圧倒したということがあるにせよ、不白自身の人間的魅力が大きく左右したのだろうと思います。
不白はプロの茶人としての優れた弟子も大勢育てましたが、面白いのは、それらの弟子に川上の姓を与えていることです。師の如心斎は、千の姓を後継者だけにしか名乗らせないというルールを作り、家元制度の確立を計りましたが、不白はその逆で、後継者以外にも、川上宗什、川上渭白、川上宗玉、後に不白を名乗った川上梅翁など、高弟の中で川上姓を名乗らなかったのは石塚宗通くらいなもの。一家意識を持たせようとしたのか、これも特異なやり方です。そして、不白は彼らを駆使して、安永から天明年間(1772〜89)に各大名家に千家の茶を広げていったのです。
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萍亭主