先回の続きですが、川上不白は、宝暦3年(1753)、一旦江戸に戻りますが、「茶人川上不白」(川上宗雪著)によれば、この頃は江戸と京都を往き来する状態だったようです。そして翌4年頃に、江戸の最初の本拠地となる茶室黙雷庵を駿河台に建て、茶会を盛んに行うようになったとあります。ここから宝暦8年(1758)までの茶会記が残っているそうで、豪商、医師、能役者など、上流階級の客が多いそうです。そういえば、昨年末、不白生誕300年記念として、「川上不白茶会記集」が、中央公論社から発売されました。結構お高い本なのですが、新年に思い切って発注したものの、まだ入手せず読んでいないので、何とも言えませんが、読むのを楽しみにしています。

   さて、「冬至梅宝暦評判記」の刊行された宝暦8年は、不白は如心斎の七回忌法要のために、8月に上洛しています。先述の一燈宗室の帰洛も秋と記されていますから、このために戻ったのかも知れません。小説的に考えて、二人が同行していれば面白いのですが。まわりくどい言い方になりましたが、どうも不白はこの頃までは、江戸で茶人として一般に認知されるには、京都との往復で、まだ少し地盤が固まらず、「冬至梅」の選に漏れたのだと思います。不白の快進撃が始まるのは、明和になってからでしょう。その明和3年(1768)には、東海寺の塔頭の琳光院を再建することを思い立ち、そのため、百三十回の勧進茶会を催しています。寄付金集めの茶会ですね。勿論、大寄せじゃないですが、平均五人の客として、650人の一流の客を呼べる実力があったということです。琳光院には、今も残る利休居士供養塔を建て、利休堂も作り、毎年そこで利休忌を行い、七事式を広めたそうです。

   安永2年(1773)、水野家の茶頭役を嗣子自得斎に譲り、神田明神台に茶室蓮華庵を建てて移り住みます。55歳の時で、実はこの後から孤峰不白を名乗ったのです。それまでは宗雪でした。そして、これから、京大坂や、各地も旅行し、大名の弟子がぐんと増えます。薩摩、長州、土佐などの大所を含め、弟子ではありませんが、上野の寛永寺の宮や、水戸家、松平不昧などに招かれ招きの交際もあります。この間に、日蓮宗に帰依し、谷中安立寺に惣門を寄進し、自分の菩提寺にするなどし、日蓮関係の聖地を訪ねたり、雑司ヶ谷鬼子母神の供養塔を再建するなどしています。そして、天明7年(1787)頃に、牛込赤城下に蓮華庵を移し、終の住処にします。69歳の頃で、ここで20年頑張るわけです。先述の「耳嚢」に「不白といえば誰知らぬ人もなく」と茶の湯をやらぬ人でも名を知るほどになった、その魅力は何だったのでしょう?

    今日はこの辺で。

         萍亭主