昨年末、ご紹介した「冬至梅宝暦評判記」に、四人もの茶人が、江戸の人気者として紹介されているのに、何故、川上不白がその中に入って来ていないのか。

   普通の茶の湯史の見方では、この頃の不白は、江戸に出てから十年弱、相当な認められ方をしていた筈なのですが。ここで「茶人川上不白」(川上宗雪著)の年表を頼りに振り返って見ると、不白は、寛延2年(1749)に江戸に出ていますが、これは、主君水野忠昭が死去したためとあります。忠昭の死は10月25日だそうですから、当然それ以降のことでしょう。暮には京都に帰ったとありますから、これはトンボ帰りでしょう。本格的に江戸に行くのは、翌、寛延3年で、師の如心斎から、真台子の伝授を受け、送別の茶会もしてもらい、8月には江戸に旅立ちます。この時、豪商鴻池家から餞別として、長次郎作の黒楽茶碗「紙屋黒」を贈られています(昨年の江戸の茶の湯の展覧会でも出てましたね)から、上方では不白は相当な大物になっていたのでしょう。そして、江戸では、利休遺偈の入手に奔走したとあります。これは、例の利休が切腹の際に書き遺したという「人生七十 力口希吶 吾この(辶➕言)宝劔 祖仏共殺」の字句で、千家第一のお宝ですが、宗旦の時代あたりに流出して、この頃は、江戸の豪商冬木家が所蔵していました。不白は交渉に成功し、遺偈は翌年の宝暦元年(1751)に、如心斎の手許に戻ります。如心斎は、この働きの褒美として、不白に、今も初釜で定番に使われる嶋台茶碗の本歌を与えたと言います。これも昨年の展覧会で出てましたね。もっとも、この話は、裏千家側の記録では、冬木家は、一燈宗室の弟子になっていて、一燈の働きかけが大きかったとしていますが。

   しかし、如心斎は、遺偈が戻ってから、二ヶ月後の8月13日には死んでしまいます。まだ46歳、当時のことですから明確な死因は伝えられていないようですが、以前から調子が悪かったようなので、癌か何かでしょうか。師の死去で不白は急遽上京して、その後、一年間は京都で他の高弟たちと千家の建て直しに尽力し、江戸に戻ったのは宝暦3年(1753)でした。

   続きは次回に。

         萍亭主