先回の続きですが「冬至梅宝暦評判記」の作者は、一燈宗室の書を、汚い、下手と決めつけていますが、それについては種々論議があるでしょうけれど、私は批評する素養も学識もないので。ただ、この作者は書道贔屓のようで、別の箇所ですが、「文筆と言って、この二つは最も大事で、どの芸にとっても大切な教養だ、琴や三味線にはいらない、『茶の湯に読み書きはないとおっしゃろうが、そうでない』、必要だ」と説き、だから巻頭に文人(儒者の服部南郭)、二番目に書家の関思恭を置いたと主張しています。この頃の茶人に「茶に読み書きはいらぬ」という風潮があったのでしょうか

  さて、細かい事が気になる悪い癖ですが、私は一つ、どうも気になるが解決出来ない疑問があります。一燈がこの時江戸に来たのは、参勤交代のお供で来たと、淡交社刊の「今日庵歴代  又玄斎一燈」は書いていますが、宝暦7年(丑年)に来て、宝暦8年(寅年)秋に帰京という「冬至梅宝暦評判記」の記事によると、妙なことになります。久松松平家の参勤交代は、宝暦8年版の「宝暦武鑑」では、卯年六月御暇、辰年六月参府と今後の予定が書かれていて、つまり、宝暦8年は参府の年です。すると、宝暦7年は御暇(国許へ帰る)の年で、一燈の江戸下向は、参勤交代と入れ違いだったことになります。つまり、公用ではなく、一燈は川上不白と同様、江戸に千家を広めるために自主的に来たという事になります。だから、活動が活発で大勢の弟子も作れた、そう考える方が面白いし、私はそう考えたいのですが、困るのは「今日庵歴代 又玄斎一燈」によれば、宝暦7年12月に、江戸藩邸で藩主にお茶を出している記録があるというのですね。これが本当なら参勤交代の参府は宝暦7年にあったことになる。しかし、当時参勤交代制度の運用は厳しかった筈で、どんな事情があったのか。それに一燈の帰京は秋で、旧暦7月から9月、松山藩の6月と整合性が取れません。私が専門の学者なら、悩む前に松山藩の郷土資料でも調べるでしょうが、その気力も時間もなく、悩みっぱなしです。

   本題に戻って、一燈がこれほど評判を得たのに、裏千家が江戸に根付かなかったのは何故でしょう。やはり川上不白のように定住しなかったからでしょうか。一燈は宝暦8年後も江戸に一度来た可能性はありますが、よくわかっていません。日本橋の千柄菊旦、八丁堀の内田宗真などの弟子の名が伝えられますが、その後が続かなかったようです。いずれにしろ、幕末の玄々斎、明治の円能斎まで、裏千家の進出は見られないのです。私の勝手な想像では、不白の流れに飲み込まれてしまったのでは、と。一燈の時代くらいまでは、表千家と裏千家の違いは、それほどなく、同じ千家という一括りで捉えられていて、師匠を変えることもあまり抵抗なかったかと。江戸になかなか来られないのと、江戸常駐の違いはあったかと思います。続きは明日また。    

        萍亭主