前回の続きですが、冬至梅宝暦評判記の一燈宗室への批評は、後半、批判的になってきます。これは、評判記の典型的やり方で総体的には褒めるのですが、必ず一つは欠点を見つけて貶す、というのが常例です。早速見てみると、原文は「あまり勿体あって、所作の時、身体がこごむ、やれ、ふりは悪いのと申す人もあれども、何にもせよ大立者に違いなし。少し申すところは、いかにしても手跡が汚いと申すぞ。茶人たち、ちと気をつけなされ、道が上がるほど、他の底が目立つもので御座る。へらず口に、慰みだから俺がのは大事ない、心で楽しむとおしゃるが、ならぬものはならぬと謝る心で 修行に恥で御座らぬ、  遅くも少しづつも習うが徳で御座るぞ」と辛辣です。意訳すると、「あまりもったいぶり過ぎて、点前の時、身体が屈む、やれ、ふり(見た目、男ぶり)は悪いのという者もいるが、何にしても大立者には違いない。ただ、一つ言いたいのは、どうみても手跡(書道の筆跡)が汚いこと、茶人はよく気をつけるべきだ、一芸に優れて来るほど、他の教養も低さが目立つもので、(茶人は)へらず口で、慰みに書くだけだから、自分のは下手でもかまわない、心で楽しむ ものだからなどと言うが、駄目なものは駄目と、認める心で修業するのは恥ではない、今からでも少しづつでも(書を)習う方が良いと思うよ」というようなことでしょうか。

   そして最後は、「まずまず茶の湯の一流、ついにない事まで教えてお上り、さぞ京都顔見世にも、なんぞ去年が御座ろう、それを聞いて又かさねて出しましょう」で終ります。

意味は、「ともかく茶の湯の一流で、今までにない事まで教えて帰京した、この冬、京都でも何か活動があるだろうから、それを聞いてから、また記事にしましょう」でしょう。「ついにない事まで教えて」というのは、一燈が兄如心斎を助けて作り上げ七事式の事に違いありません。「なんぞ去年が御座ろう」は、よくわからないのですが、まあ、上記の意味だと思います。「去年のような活躍」ということでは、と。

  さて、発端で書いたように、この話、茶の湯関係の本に一切出て来ません。一燈宗室に関する最新の研究書は、淡交社の「今日庵歴代  又玄斎一燈」(平成20年刊)でしょう。この本にも、この話は一切ない、ただ年表の宝暦8年欄に、6月4日堀田相模守に台子を披露したことと「参勤交代で江戸に在り、一年間延ばしていた宗旦百年忌追善の百会茶事を10月11日より12月21日まで催す」ということしか書いてありません。江戸での活躍や評判は全く書かれていないのです。冬至梅宝暦評判記に書かれた江戸の茶の湯界、というよりは世間一般に認められていた一燈の功績は、川上不白と同時期だけに、裏千家にとっては、声を大にして誇れる史実の筈ですが、勿体無いような気がしますね。ちなみに淡交社の本には、筒井紘一先生が、一燈が、又玄斎の号を使用したのは、宝暦10年5月以降のことでは、と推論されていますが、宝暦8年には名乗っていたことが、冬至梅宝暦評判記でわかります。続きは次回に。

      萍亭主