三千家の当主たちは、先祖が結んだ縁を明治維新まで繋ぎ続け、表千家は紀州徳川家、裏千家は伊豫松山の久松松平家、武者小路千家は讃岐高松の松平家(水戸徳川家の分家)に茶道頭として奉公を続けました。

   しかし、本拠の京都を離れて、城下(国許)に住んだわけではなく、一年おきに行われる参勤交代にも毎回付き合ったわけでもなさそうです。分限帳(職員録)にも、「京住居」とか「京」と記されているものもあり、京都に常住して、城下には何かの折に呼び出されて伺候するという感じだったのでしょう。紀州和歌山が一番京からは近そうですが、後の二つは海を渡らねばならず、大変だったろうとも思いますが、今だと不便そうに思える交通事情も、当時の人は案外平気で往き来したのかも知れません。ただ、参勤交代で江戸に行けば、一年間は江戸で暮らさねばならず、本拠を留守にするのは、家元としては大変だったでしょう。千家の公刊された資料には、この辺のことがほとんど書かれていないので、先回の六閑斎のようにはっきりしているのはまれなんですね。江戸に生涯行かなかったのかと思える家元もいるのですが、門外漢の私には、よくわかりませんけれど、ともかくそんなに江戸に行ってはいないように思えます。

   その中で、江戸に行ったことがはっきりしていて、しかも、大変名誉とされた話を残した人がいます。表千家六代、覚々斎原叟宗左です。宗左は、久田家から養子に入り、14歳で家元を継ぎましたが、紀州家に出仕したのは、常識的に考えれば、十八、九歳の元禄8年(1695)あたりでしょう。紀州家は二代藩主光貞の時代ですが、間もなく光貞は隠居し、三代綱教を経て、原叟が28歳の宝永2(1705)、藩主となったのが徳川吉宗です。原叟の方が6歳年上ですが、吉宗は気に入っていたと言われます。11年後、吉宗は徳川宗家を継いで将軍となりました。これで縁が切れたわけですが、将軍就任後8年目の享保8年(1723)

 、新しい紀州家当主の参勤交代に付き従って江戸に来た原叟に、昔を懐かしんだか、吉宗は茶器を下賜しました。それは、肥前唐津藩主から献上された唐津焼の茶碗です。吉宗の使で持参したのが、小納戸役(将軍の身の回りを世話する)桑原某だったので、その茶碗は後に「桑原茶碗」と呼ばれるようになります。 大河ドラマ「八代将軍吉宗」では、この時、原叟は江戸城に登城し、そこで与えられるように描いていたかと思いますが、その方がドラマチックですけれど、それな無かったと思います。当時のルールでは、原叟の身分では江戸城に上がれないし、将軍と対面出来ません。将軍の権威、尊厳は今の我々が想像出来ないほど高かったのです。ですから、対面の上でなくとも、将軍から茶器を拝領することは、大名ならいざ知らず、一介の陪臣の茶頭に起きることでは無いのです。破格のことをした吉宗は、よほど原叟を気に入っていたのでしょう。世間も評判し、原叟も非常に感激したでしょう。

   後年の本ですが「甲子夜話」が伝えるところでは、帰京した原叟は早速。この茶碗を披露する茶会を開くからと門弟たちに準備を命じます。しかし、誰にも案内を出す様子もないので、妻が訝しんで事情を聞くと、「客はお前だけだ」と答えます。驚く妻に、「このような大変な名誉を得たのは、自分が千家という名誉な家に婿養子になった、つまりお前と結婚したからこそで、この名誉はお前のお蔭なのだから、お前を正客に招くのは当然である」と言い、妻もとうとう納得して客となったといいます。ちなみに、この妻は、これから半年ほど後に亡くなりました。小説の題材にでもなりそうな話ですね。考えてみると、千家の人間で、将軍(になった人)に縁があったのは、原叟ただ一人でしょう。

       萍亭主