先回、書いたように、三千家を起こした江岑宗左、仙叟宗室、一翁宗守は、江戸に出たことはあったにせよ、弟子を江戸で育てたとか、千家の茶を広めたとかいう活動は行なっていません。上方と違い、江戸にはまだ付き合うような茶人も少なく、殿の御用を勤めるだけだったのかもしれません。

   次世代になると、表千家は、江岑の甥(妹の子)が、久田家から養子に入り、随流斎宗佐となります。この人だけが名前に「佐」の字を使うので「にんべんそうさ」といわれます。江岑の死の翌年、延宝元年(1673)紀州徳川家から、家督相続を許され、父同様、茶頭を勤めました。参勤交代に従って江戸に行ったことがある筈ですが、確たる資料はありません。元禄四年(1691)42歳の若さで歿しました。山田宗徧が江戸に入る7年前です。

   武者小路千家は、一翁が延宝3年(1675)に歿します。享年については近年、議論がありますが、それはさておき、文叔宗守が跡を継ぎます。文叔は父同様、讃岐高松の松平家に勤めたのですが、江戸に行ったのかどうか判りません。予楽院近衛家熙と交際があったろうことは、茶杓箪笥(当ブログ「31本の茶杓」参照)から想像つきますが、江戸関連の交際は判りません。山田宗徧と同じ年に死んでいるので、宗徧の江戸進出、活躍は知っていた可能性はあります。

   裏千家は、仙叟宗室が兄弟の中では最後まで生き、死んだのは元禄10年(1697)ですが、5年前の70歳の時、加賀前田家の茶頭を辞め、京都に帰りました。跡目は晩年に後妻に産ませた常叟宗室が継ぎ、前田家に勤めますが、当時の前田家には、小堀遠州流や金森宗和流の茶頭も多く居て、まだ21歳の常叟は、軽んぜられたらしく、父の死の頃には前田家を離れたようです。そして元禄15年(1702)伊豫松山の松平家に茶頭として仕える事になります。給料は加賀時代の五分の一程度に減ったようですが。勤めた翌々年夏、32歳の若さで死んでいます。おそらく江戸には行かなかったと思われます(私なりに考証した結果ですが、くだくだしいので理由はやめます)。常叟の子、六閑斎は父の跡を継いで、松山藩に勤めたのは、多分、 正徳3年(1713)頃でしょう。この年、20歳で、家元として初めての茶会を開いています。ちなみに父の死んだ時は11歳でした。そして、六閑斎は、享保11年(1726)、殿に従い、参勤交代で江戸に出ました。それ以前に、江戸に行かなかったか資料がないので解りませんが、ともかく、この年は、山田宗徧が死去してから18年後、江戸の市中に茶の湯人口が、かなり増えて来た頃です。茶の湯の形態に流儀化が進行し、江戸が文化都市に変貌発展して行く中で、六閑斎が何を感じたか、興味が湧きますが、しかし彼は江戸到着後、わずか二ヶ月で病死してしまいました。まだ33歳、旧暦八月のことです。千家の家元で京以外で死んだのはこの人だけで、品川東海寺に葬られ、沢庵和尚の墓の近くに眠っています。大徳寺にも無論、墓はありますが、あれは供養墓。今でも六閑斎忌の茶会が毎年、東海寺で行われ、そういう意味では、一番東京に縁のある千家家元かも知れません。茶会は新暦で行われるので、一度行ったことがありますが、暑くて大変です。亡くなった場所は、芝三田の現在イタリア大使館になっている、松山藩中屋敷ですが、実はこの場所、元禄16年(1703)に、赤穂浪士の大石主税他十人がお預けになり切腹した場所。もし、父の常叟が、参勤交代で来ていたら、忠臣蔵と何かの挿話があったかも知れませんね。今日はこの辺で。

       萍亭主