山田宗徧と、忠臣蔵の話の続きですが、十二月十四日の討入りのきっかけになった吉良邸の茶会は、どんな茶会だったのか。高家仲間の大友近江守を正客の夜会であったという説(勿論、宗徧も招かれています)が有力のようですが、私も夜会だったと思いたい。時節柄もそうですし、夜会なら、そのまま家で眠るのは確実で、昼会では、そのあと、外泊する可能性も皆無じゃないですから。

   小説だと、この場面、いろいろ勝手に書かれますが、可笑しいのは、大勢の客の接待に家臣が疲れ、よく寝入っているところを襲われる風に書いたのもありましたが、現代の大寄せ茶会じゃないんですから、客は多くても五人以下、それを接待する茶道役もちゃんといるし、警護役が茶の湯にこき使われることはない。それはともかく、この日、本懐を遂げた浪士たちは、水屋に籠花入を発見します。桂籠花入。桂川籠とも言い、利休が京都の桂川で、漁師の使っていた魚籠を貰い受け、花入に見立てたもので、丸く下がちょっと膨らんだ形です。利休から少庵、宗旦へと伝わり、上野介に懇望されて譲った、或いは、この日の茶会のために貸したというのですが、これを浪士たちは白い布に包み、槍の先にかざして引き上げます。上野介の首に見立てたもので、上野介の実子が養子になっている上杉家の兵が追撃してきた場合、首を奪回されないように、フェイクにしたわけです。「宗徧の茶」にも同様の記述がありますが、この籠、その後、宗徧から弟子の坂本周齋に譲られ、現在、香雪美術館蔵ですが、槍で貫かれた傷があると書いてある本もありますが。私は利休展で見たことがあるんじゃないかと思うんですが、だらしないことに思い出せない。しかし、槍の傷跡はともあれ、浪士たちが持ち去った籠は、誰が、どういう経緯、手段、経由で宗徧に返したのでしょう。大高源吾の話同様、火のないところに煙は立たずで、何らかの伝承はあったんでしょうが、うーん、面白い話ではありますけど。

   私が読んだ本で(題名は忘れましたが) 、一番バカバカしかったのは、この日、宗徧は茶会の後、吉良邸に泊まり、討入りで、大切な桂籠を持って天井裏に隠れた。人の気配を察して浪士の一人が槍で天井を貫いた、その時宗徧、とっさに籠で受けたので、籠に傷が!宗徧、この時74歳ですよ、上野介の一回り年上、武家屋敷の高い天井に登れますか。

   馬鹿話はさておき、宗徧流諸派は、今、十二月には、討入り茶会を催すようですし、泉岳寺で献茶なんて話も聞きますが、それだけ、赤穂義士、大高源吾などとの接点を強調したいのでしょうが、でも、宗徧は本当は、吉良家との付き合いの方が、はるかに深かった筈で、こちらの方の献茶ならともかく、赤穂義士に肩入れはおかしいと言う人もいたのですが、これは要するに、その後の吉良の不人気、義士の人気のもたらしたものでしょう。上野介の茶の湯の師匠が、誰かよく分からないのも「上野介はうちの門下」と公言するのをはばかられるような世相が続き、その家で伝承を消してしまったからではないでしょうか。上野介は宗徧の弟子だという説もあるようですが、宗徧流の方では、どうも認めたくもないようです。

     萍亭主