人間、年月が経つと忘れてしまうことも多く、いや我ながら情けなくなりますが、ふと思い出すこともあったりして。

   土曜日(11月30日)のブログに、遠州のことを書いた後、今になって思い出したことがあったので、そのことを少し。

  私も若い頃は、わからないなりに茶書を読み齧って、身についたかどうかは兎も角、勉学らしき事もしたのですが、その頃、小堀遠州の年譜を調べたことがあったのを、ケロッと忘れ、「遠州の年譜を調べた事もないので」と、偽証してしまいましたが、メモを探してみたら、どこぞの会の記録と違って、消去廃棄もされず見つかりました。

    小堀遠州は、寛永19年(1642)10月江戸に下り、以後4年間滞在して、将軍家光に茶の湯を教えたそうです。つまり、この間、集中的に茶の湯授業をしたんでしょうかね。正保2年(1645)、お暇を貰い、立花丸壷茶入を拝領して伏見に帰り、2年後に死去します。万年石の故事は、この滞在中のこととされています。勿論、これ以前にも江戸には度々来ていて、寛永6年(1629)には、秀忠のために江戸城西ノ丸に茶室を作っていますし、寛永8年(1631)から9年にかけても滞在、寛永13年(1636)には将軍の日光参詣に供奉、品川御殿造営をしていますし、翌々年には、東海寺の茶室造作をしていますから、江戸にはしょっちゅう顔を見せていたわけです。しかし、四年も本拠を空けていて、伏見奉行の職がよく勤まったなあ。家来たちが実務を代行していたのでしょうが、意外に楽な任務なのか?

   以上の出典は、遠州関係の書物から纏めたのですが、その中のメモに、小堀遠州は、戦場経験があったか、大坂の役に従軍していないのは確かですが、寛永15年(1638)の島原の乱に出兵しているかどうか、当時のメモには「?」としてありますが、その後の茶の湯研究の日進月歩の中で、この問題はどう結論付けられているのでしょうか。

   もう一つ思い出したのが、出典はなんだったか忘れましたが、遠州の逸話で、こんな逸話がありました。千宗旦が遠州に対し、遠州の茶風は、利休の教えから逸脱していると詰問の手紙を送り、遠州は、それはよくわかっているが、自分の地位から、今の世相に合わせて、こうせざるを得ないと返事して、純銀の茶杓を宗旦に贈った、宗旦は、その筒に「遠州より来たる  水屋用」と書いたという話です。胡散臭い話と感じていたんですが、東京美術倶楽部正札市で、その茶杓を見たのですね。倶楽部が今の建物に建て替わった直後(平成3年でしたか)だと思います。正札市では、来歴のある品や高価なものは大抵が二階の和室に並ぶのですが、これは三階の隅に、ひっそりと置いてありました。価格は四十万という中途半端な値段、筒には本で読んだ通りの文言が書いてありましたが、さて、その字が私にもたやすく読めるんです。宗旦の字なのに?あれは何だったんでしょう、説話同様、ほんとかな?という疑問が、今に消えません。

   明日はブログを休みます、また次回。

      萍亭主