三代将軍徳川家光が、小堀遠州の茶の湯の弟子だったことは、茶人系譜にも記載があり、公認事項でしょうが、その割には、二人に関する逸話が少ないような気がします。
大体、家光といえば、乳母の春日局、剣豪の柳生宗矩、禅の沢庵和尚、智慧伊豆こと松平信綱が、側近として、講談を始め登場する機会が多いのですが、遠州もお気に入りの一人には違いなかったのでしょうが、他のメンバーに比べると、家光との間の逸話が少ない。私の覚えているのでは、ある時、家光が品川東海寺に遊びに行き、奇妙な石があるのを見て「あの石に名前をつけてみよ」と側近の家来に命じたが、誰も考えあぐねて出来ない、そこで遠州に命じると遠州は立ち上がり縁に出て、石に向かい「万年石」と三度呼びかけた、すると石が頷き、家光は大いに喜んだ、と言う話。家光が遠州の茶の湯の点前を褒めたとか、遠州が家光にこんな稽古を付けたとかいう逸話を寡聞にして聞かない。遠州は沢庵とは大の仲良しですが、他の人とは、それほどでもなかったようです。
話は違いますが、上記の家光の側近、春日局が寛永20年(1643)に死ぬと、その2年後に沢庵、翌年柳生宗矩、その翌年に小堀遠州が死にます。側近に次々と先立たれ、遠州の死後4年目に家光も死去しますが、晩年は寂しかったことでしょう。 話を戻して、遠州の天下の宗匠としての名声は、織部を超えるもので、時代が平和に向かう時だけに、全国的に広まったようです。織部の弟子で遠州に変わった者もあり、大名では加賀の前田利常、光高父子、実力者の老中阿部忠秋、岡山の池田忠雄(鍵屋の辻決闘の原因で有名)あたりが、茶人大名と呼べるメンバーで、他はこの頃から能楽と茶の湯を知らないと交際に困るからという面々だったかも知れませんが、習うなら将軍の師範役にというのは、自然な流れだったでしょう。 幕府の高級官僚にも勿論、遠州の弟子はいましたが、しかし、遠州の活躍は江戸より、やはり上方での方が目立ちます。松花堂昭乗、佐川田喜六、江月和尚、黒田正玄など、名だたる弟子は皆、上方ですし、大名との付き合いも、実は伏見などの上方の拠点で多かったようです。遠州は幕府の思惑を気遣い、朝廷、公卿とは、公務以外での接触を避けていたという説があり、たしかに公家社会の弟子は見当たりませんが、遠州の弟子には、後に宮家の茶堂を務めた大森漸斎が出ています。そもそも遠州の作り上げた茶の湯世界は、和歌などを基本に、王朝的な雅びな世界を取り入れたものですから、上方の風土が似合うのは当然かも知れません。
遠州の死後、小堀家当主は個人として茶の湯を心得ていても、大名ですから、他の家元風に茶の湯を教えることもなく、遠州のように人が寄ってくるわけでもなく、遠州流の茶の湯は、遠州の三男で幕府旗本となった権十郎政尹が篷雪の号で、元禄時代まで茶人として名高かったのと、遠州の弟子の江戸城のお数寄屋坊主から学んだ土屋政直(5代将軍から8代将軍まで老中を務めた実力者)が、「土屋蔵帳」の名で有名になる名器の蒐集者で知られた他は、江戸で遠州流は振るわず、その復活は小堀家が大名の地位を失った後、茶の家として復活する18世紀末まで待たねばなりませんでした。
萍亭主