江戸における茶の湯に関し、 川上不白の功績の大きさは、簡単に書けるものでもありません。つい、不白のことから書き始めましたが、江戸の茶の湯について考えるには、時系列的に、江戸開府の頃から考えてみないといかんな、と。ご存知のことばかりかも知れませんが、私の頭の整理にお付き合い下さい。
徳川家康が、開府する前の江戸はというと、その100年前は、旧都庁前の銅像でご存知の、太田道灌の居城がありました。太田道灌は茶祖村田珠光の十歳ほど年下、死んだのは、長生きだった珠光より17年ほど前ですが、要するに同時代の人です。江戸に茶の湯が初めて顔を見せたのは、この時代だろうと思います。道灌が茶の湯をしたかどうかは資料はないと思いますが、この時期は、応仁の乱の混乱を逃れ、地方に散った公家や連歌師などが、都の文化を地方に伝えた時期です。道灌は、彼らと交際し、文化人でもあり、和歌連歌の嗜みが深く、都風の教養の持ち主として有名でした。連歌師などには茶の湯の素養もある者が多かったことですし、道灌が、当時上方で流行っていた珠光の侘び茶や、足利義政の唐物茶と全く無縁だったとは、私には思えません。出典が明確でない説話ではありますが、道灌は、部下で武道の訓練を怠る者から罰金を取り、それを家来たちの「茶代」に当てたと言われます。茶はこの時代、勿論抹茶ですから、つまり道灌は家来たちに茶の湯振る舞いをしたということになります。
道灌の死後、江戸城はやがて小田原の北条氏の勢力範囲に入ります。小田原北条氏の隆盛は大変なもので、16世紀半ばの小田原は、京都、堺、山口などと並ぶ大都会で、経済的にも豊かで、文化の盛んなところでした。茶の湯も盛んに行われ、象徴的なのは、利休の高弟山上宗二が、晩年、北条家の一族に召し抱えられていたことで、関東にも利休流の茶は行われていたことは明らかです。室町時代、下野(栃木)佐野の天明(天命)釜が盛んに作られたのも、関東の茶の湯の流行が関係しているでしょう。武蔵(今の東京・埼玉)の北条の勢力圏内では、当時は八王子、忍、岩槻城などが大きく、江戸は重要拠点ではなかったものの、北条文化圏の中にあって、茶の湯が行われた可能性は高いでしょう。八王子城の遺跡からは、青磁、染付、瀬戸などの陶片が出土していて、茶の湯が行われていたことがわかります。家康の築城以前の旧江戸城の遺跡は発掘されていないのですが、すれば茶の湯関連の品が出るだろうと思います。
要するに、德川家康入城以前の江戸も、茶の湯と無縁ではなかったということです。まずはこの辺で。
萍亭主