「今週の日曜 、お茶会があるの」などという時は、大寄せ茶会に決まっています。茶会と言ったら、大寄せ茶会、これ、いつ頃からそうなったのか。どうも、これは戦後、昭和30年代くらいからのようです。

     大寄せ茶会の最初は、豊臣秀吉が天正十五年(1887)十月一日に、北野天満宮で行った、北野大茶の湯だとされます。沢山の急造の茶席に、千人の客が詰めかけたと言われますが、この形式は長く行われませんでした。明治になり、益田鈍翁が大師会で復活してから流行しだしました。定期的に大寄せ茶会を行う組織も次々と出来、戦後は、本来の茶会である茶事を開催数では大きく逆転することになります。

    大寄せ茶会は、定義としては、開始時と終了時は決まっているが、開催時間中、いつ参加しても退出してもよく、複数席あるのが基本で、どの席から回っても自由、席は各流入れ込みの場合も、ある流儀だけの場合もある、というようなところでしょうか。京都などでは一席だけという場合もあるようですが、関東では最低二席、そして点心(弁当)席がつくことが多いようです。戦前は「大衆茶会」という呼び方もあったようで、茶の湯の道に入る易しい大道門、つまり方便の一つで、茶の湯に親しみ、やがて真の茶会(茶事)を楽しむ本当の茶人になるためのものという位置付けであったようですが。

   佐々木三味氏(裏千家  文筆家)は、大寄せ茶会のことを、皮肉たっぷりに「三され茶会」と呼んでいます。その理由は、一つ、 長い時間待たされ、二つ、点て出しの茶を飲まされ、三つ、追い出される、そこで「三され茶会」。 

   上手いことを言うものです。三味氏が茶の湯の黄金期と呼ぶ大正から昭和10年代前半は、毎月5、6回は茶事に呼ばれ、自身も年5、6回は茶事を催し、仲間たちと大寄せ茶会をすることがあっても、お客は一日四、五十人、百人も来るとちょっとびっくりするという環境で、家元の会や光悦会、昭和北野大茶の湯なども、その頃は大混雑ではなかったようです。そんな環境にあった三味氏には、大寄せは馴染めなっかったのでしょう。大寄せというものは「茶券を購入して、美しく着飾った数人づつが連れ立って、鮨詰め待合で待ちあぐんで、さて入席して、器物のことなどチンプンカン、菓子と点て出しの茶を貰って万事OK。その帰りに映画を見て、街の珈琲店に入って帰る。一種のリクリエーション、それがお茶だと思っている」と、批判しています。今、東京の席数の多い茶会だと、一日中掛かったりしますから、三味氏の言う「帰りに映画を見て」云々だけは違うかも知れませんが、あとは変わりはないようです。

   私も、茶の湯の客の経験は、大寄せ茶会ばかりで、簡略なものも含めても茶事の経験は、十指を折れるかどうかです。つまりは、大寄せ茶会のお蔭で茶の湯を楽しみ、親しんできたとも言えなくはないのですが、たしかに批判したくなるような出来事や、おかしな目に遭遇しましたし、今、大寄せ茶会ってこれでいいのか?と思う時もあります。素人ながら、その辺を歯に衣着せず、次回は書いてみましょう。

        萍亭主