さて、にせ物語の本論に戻りまして、江戸時代から偽作の被害者だった名工は、仁清、楽代々に次いで尾形乾山を挙げなければなりません。
「乾山と幽霊は見たことがない」とは、古い道具屋さんの言葉だそうですが、昔から本物が少なく、贋物が多いことで有名だったのですね。乾山は鳴滝に窯があった頃はともかく、二條丁子屋町時代は食器を中心にかなり多数の作品を焼いた筈ですが、軟陶であることと、食器という宿命から、相当壊れて失われたことでしょう。しかし、それを補うように贋物が沢山出回ります。ただ、仁清と同様、作る方は乾山焼という流行ブランドのコピーを作っているつもりなんでしょう。乾山は書き銘だけで、印はありませんから、銘もデザイン風に書き込み、本歌にもありますが、器の上や横に銘を書いたりもします。デザインで乾山の書き銘まで写しても、自分の印や銘もつけた真面目な写しも、錦光山などで作られましたが、そういうものの多くは、印や銘を削られて、本物にされてしまったようです。明治以降も贋物は作られ、京都には乾山堂という専門の贋作屋があったそうです。
次に、人気の高かった青木木米は、生前から贋作が作られました。木米自身、青磁、赤絵、古染付など中国陶磁の写しの名手で、いっとき、贋物作り視された事さえありましたが。木米の贋物は赤絵、染付が多く、印を写すのは面倒なのか、書き銘の贋作が多いようです。結構、出来の悪い贋物が多く、九谷焼のものは例のブランド土産品化しています。
木米の師匠奥田潁川は赤絵で有名ですが、この人の物には、弟子の楽只亭嘉助(らくしてい かすけ)の作が紛れ込んでいるという識者もいます。
江戸後期の京焼の名工と言えば、仁阿弥道八と永楽保全ですが、保全は祥瑞や赤絵、金襴手の写しの名手ですが、ことに祥瑞写しは、逆の被害者になる、つまり印や銘を削りとられて、本物の祥瑞にさせられることが多くあったといいます。その内、保全その人の評価が上がり、贋物屋も勿体ないことは、しなくなったとか。ついでですが、バブル絶頂期の頃、保全の祥瑞蜜柑水指が一千万で売られていたのを見ましたっけ。仁阿弥も器用で種々の写しを作りましたが、個性的な写しなので、印を削っても本物になりにくいので被害に遭わなかったそうです。
明治末以降、茶の湯の隆盛に伴い、仁阿弥、保全の人気急上昇とともに、その贋物が多く出ます。人気のあるものだけが贋物が出来るというのは鉄則で、この時期になると、保全の子の和全や、瀬戸の加藤春岱、奈良の奥田木白、加賀の大樋勘兵衛(五代長左衛門)などが狙われ、偕楽園焼や湖東焼、正木焼、一方堂焼など、ちょっと特殊なものも流行した時に、贋物もすぐ現れ、現在にも残って時々現れます。こういうものは大体、京都、名古屋、金沢が制作流通の本場とされます。
「世に贋物の種は尽きまじ」で、茶の湯には、あまり関係ありませんが、鑑賞陶器の花形、柿右衛門は随分昔から、有田、三河内、九谷などで贋物が作られた、古九谷は九谷の現代工芸品が紛れ込み、鍋島焼は、今泉今右衛門の作や香蘭社の新しいものが紛れ込んでいることが多いといわれます。
怖い話ばかりです。
萍亭主