前回の続きですが、益田鈍翁が手に入れた、光悦作赤楽茶碗、銘雪峰を拝見した道具屋戸田露朝は、しばらく茶碗をひねくり回してから、首を傾げ「これはどうも変で御座います。念のため調べます」と言ったので、鈍翁は真っ青になりました。目利きである露朝は、見た道具は、その特徴などを詳しく手帳に書き、資料を作ることで有名でした。その手帳を拡げた露朝は、釉薬の流れ方や、種々の相違点を指摘し、贋物であると断定しました。鈍翁は道具屋に返金を申し入れましたが、借金の穴埋めに使ってしまったと言い、取り立てようがなかったと言います。

   プライドの高い鈍翁は、この事件を生涯、他人に語りませんでした。どこかで、この話を聞き込んだ記録者の藤原銀次郎は、いつか鈍翁の機嫌の良い時に、この話を持ち出し笑ってやろうと思いながら、鈍翁の生前には、ついにその機会がなかったと書いています。大御所鈍翁の御機嫌を損ねるのは、藤原でも怖かったのでしょう。藤原は、「翁としては、ニセ雪峰を叩き壊すのも癪だし、泥棒でも這入って盗んでくれれば、どんなにかサッパリするだろうと思われたことと思う」と述べています。

    資料の乏しい時代に、贋物とは言え、光悦の雪峰だと、茶碗を見た途端に思ったのは、鈍翁が優れた知識を持っていたとも言えますが、なまじ知識のあったことが、引っ掛けられる原因であったともいえます。私見ですが、実は雪峰は大正4年、東京美術倶楽部の茶室開きで、酒井家が出品し、展観されています。もし、この時、鈍翁がそれを見ていたとしたら、その記憶に乗じるほど、贋物は良く出来ていたか、鈍翁がしっかり見なかったかになります。いずれにせよ、鈍翁と雖も、事前に山澄か戸田か、目利きの道具屋に相談していれば、こんなことは起きなかったでしょう。

    実は、鈍翁の失敗は、 もう一つ伝えられています。これは高橋箒庵が、鈍翁の生前に発表していて、それによると、日露戦争の後、鈍翁は清国視察に出かけました。そして現地の某大家から出たという古銅の花入を手に入れ、帰国した長崎港の税関で、美術品に掛る関税の支払い手続きに随行の部下を差し向けました。旅館で待っていると部下が得意顔で帰って来て、「ご馳走して頂きたいくらいの結果です」と言うので、「税金はいくらだったか」と問うと「驚くなかれ、一銭も掛かりません。税関の話では、近年、清国から古銅器の贋物が大量に輸入されていて、この花入もその手の一つで、しかも拙作、こういうのはナイフを当てればすぐに新しい地金が出ると言われました。税金をかける必要はないとの事で」との報告。鈍翁はフフンといった顔で「税関の役人に美術のことがわかるか」と、吐き捨てましたが、その後、ついにこの花入は一度も茶会に現れなかったと箒庵は冷やかしています。

   大茶人鈍翁でも、こんなこともあるのですから、我々など、とも言えますが、やはり、こういう贋物騒動には巡り会いたくないものです。

       萍亭主