「昔道具ありけり」で、茶道具には贋物が昔から多いという、にせ物語を始めますが、実際、茶道具の世界には結構贋物でが横行しています。

    今から30年近く前、日本橋三越で茶美の会という売り立て市がありました。今の和美の会の前身ですが、そこで茶杓の贋物がが売られていると週刊文春が噛み付き、三越が営業妨害、名誉毀損で告訴する騒ぎがありました。詳しい経緯を説明するのが目的ではないので、それはまたの機会に譲りますが、その裁判の記録、判決文を当時、読む機会があったのです。判決文なんて読んだのは、後にも先にもこれ一度ですが、「え、こんなに詳しく書くの!」と吃驚したものです。裁判所は、この時、真贋鑑定に何人かを依頼したのですが、その鑑定人の息吹も伝わる様な記述でしした。その中に、当時「真贋」という本で有名だった美術評論家白崎秀雄氏(益田鈍翁、北大路魯山人、原三溪などの伝記でも有名)がいたのですが、その言葉に私は衝撃を受けました。

   「茶道具はもともと贋物ばかりで、その中で成り立っている世界だから、鑑定は意味がないので断わる」という趣旨だったと思います。当時、茶の湯の世界に足を踏み入れてまだ経験の浅い私は「ほんとかいな」と当分頭を悩ませたものです。氏の言は

極論とも言えますが、本質を突いている気もして、未だに整理がつきません。裁判は週刊文春の勝利で終わりました。真贋の決着ではなく、要するに文春の行為は営業妨害名誉毀損には当たらないという論理でした。

   茶道具の贋物の歴史は、随分昔からあって、利休が手に入れた墨跡が贋物だと先輩から指摘され、利休は軸を破り捨て、当分門を閉じて世間と接触せず修行したという逸話など古いものでしょう。

   江戸時代最初期、大徳寺の住持(紹長でしたっけ?ちょっと忘れましたが)が、織田有楽に、開山宗峰妙超の書の軸を売りつけました。宗峰妙超の書は、現在も国宝重文級ですから、有楽は喜んだのですが、あの軸は贋物だという声が起こり、いや本物だ、いや偽だと、沢庵や崇伝など当時の有名な坊さんたちも巻き込んで大騒ぎになりました。そこで、とうとう将軍秀忠が乗り出して決着をつけるという事態になります。為政者が美術の真贋判定に乗り出すなんて考えてみれば変な話なんですけどね。当時、随一の学者林羅山に、秀忠は鑑定を依頼し、羅山の判定は「誤字があるから宗峰妙超のものではない」ということで、住持は大徳寺から追放という処分を受けます。これが多分、史上初の大きな贋物事件で、以後、現代までいろいろな騒動が起きますが、逸話の範囲で済んでいればいいですが、自分が贋作に巻き込まれるのは、誰だって嫌なものでしょう。贋作誕生の経緯などを次回は追ってみます。

       萍亭主