共箱は、その品が誰が作ったと言う証明ですから貴重なものですが、もし、それがなかったらどうでしょう。印や書き銘が品物にあって、その作家のものだと証明出来ても、共箱がないと、もしかして偽物?と疑心暗鬼に落ち入り、何か落ち着かなくなる。ことに古いものや、ブランド作家のものは、贋物があっても不思議がないのですから、一層不安になります。そもそも共箱がないと言うのは、よほど特殊な事情がないかぎり、あり得ません。長年、転々としているうちに、紛失したり壊れたり、意外に多いのが、受け継いだ人が茶の湯の心得がなく、「箱、邪魔」と捨ててしまうケース、茶碗はそれほどでないにしても、花入などは箱が大きいばかりに、そういう憂き目によく会います。買った時に紙箱で壊れてしまったなどのケースは、身も蓋もなく言えば、お稽古道具の安物で、箱の有無は関係ない一生ですが、良い道具の共箱の有無は、処分する時にも大きな影響が出ます。テレビの「何でも鑑定団」をご覧の方は、玩具の鑑定で、北原氏が「これに箱が付いていたら値段が5倍違います」などと箱の有無の違いを説くのをご存知でしょうが、茶の湯の世界も箱の大切さは同じ、いや、それ以上です。道具屋さんは、道具を見る時、まず箱から見るというくらいですから。
随分昔ですが、年輩の道具屋さんたちが、美術倶楽部の正札市で話しているのを小耳に挟んだことがあります。「いい唐津だねえ」「だろう。けど双葉山なんだよ」「だろうな。でなきゃ、あの会に出ねえ」何のことかわからず、懇意の道具屋さんに解説を頼んだら、話題になっている唐津茶碗には箱が付いていない、つまり裸、このことを業界では相撲取り道具と符牒で言うそうです。話し手は老人なので、彼等の時代の代表的相撲取りの双葉山の名で、更に洒落たわけで、箱があれば、もっと格の高い競り市に出る道具という意味でした。
さて、そういう相撲取り道具を復活させる、その手段の一つが 、極め箱を作ることです。前もって書いておきますが、家元とか茶人、有名人が書き付けたものは極めとは言いません。ネットか何かで「家元極めの名品」と宣伝していたりしますが、これは間違いで、極めとは鑑定のこと、家元は鑑定なんかしません。じゃあ誰がするというと、その作品を作った人に縁のある工芸家か、陶磁器などの研究家です。ただし、茶杓と軸は特例で、後で別に書きます。釜も特殊なルールがありますが、3月の当ブログ、「極めのルール」に書きましたのでご参照下さい。
極めは、作者の子孫が書くのが最も良く、楽家の品は楽家が極め、大樋の品は大樋家が極めるので、相互乗り入れということはない、永楽家が清水六兵衛家のものを極めたり、その逆もありません。
悩ましいのは、子孫のいない家の作品です。この場合、例えば真葛香山の品は、遠縁の真葛香斎家が極めるような、縁のある家がやる場合もあります。
うんと古い、作者もわからないような、古備前、古萩、古唐津、古瀬戸、志野、織部などを、その地方に縁のある有名作家、藤原啓、三輪休和、中里無庵、加藤唐九郎、荒川豊蔵などの大作家が極めを書いたり、明治時代の二代真清水蔵六が、青木木米などを極めたりしていますが、この場合は、陶工というより陶磁器研究家的鑑定家の顔でやっている感じです。
陶磁器研究家は、備前焼の桂又三郎とか、満岡忠成、最近では林屋晴三とか居ますが、
古い物だけ極めて、作家物は極めないようです。
書式は工芸家は、概ね共箱と同じ形式で、研究家は各自バラバラです。
共通しているのは、執筆料が必要という事です。
続きを次回に。
萍亭主