護国寺の茶室は、高橋箒庵の在世中にまだ増えます。

  昭和11年に、馬越家から、小間三畳台目の化生庵と、八畳の月窓軒が寄贈されます。現在、月窓軒は月光殿からの渡り廊下がつけられて、大寄せ茶会の主席になることが多いようです。次の控えの間の襖をはずすと、十四畳の広さになるので、そうやって使う会が増えました。そのため、水屋が狭くなるので、化生庵の水屋も使わざるを得ず、結果、化生庵が茶席としては使われない状況になるようです。

   同じ年に、もう一つ茶室が寄贈されます。明治の薩摩の元勲、松方正義の五女梅子は、裏千家の師範堀越宗円として活躍し、晩年は裏千家で初の女性老分(最高顧問)となっています。34歳の時に、蕾会という会を創立し、その十t周年記念として、仰木魯堂に設計建築を依頼した茶室一棟を寄進しました。もちろん箒庵と相談の上です。茶室は四畳半台目下座床で、次の間には隅炉が切られています。名前は蕾を二字にわけて、艸雷庵と名付けられました。今、大寄せで使われるときは、次の間を寄付きに出来るので、唯一、寄付きのある席になります(最近は前記のように、月光殿が月窓軒の寄付きに使用される例もありますが)。ただ、本来、外から躙口に廻るのを、大寄せでは廊下伝いに給仕口から入席させるので、何となく妙な感じになります。この席の腰掛待合の隣に小さな鐘を吊った建物があります。下に腰掛が設えてあるので、待合に利用されていますが、これは鐘撞堂なので、鐘は翌12年に寄進され艸雷鐘と箒庵が命名して由来と共に彫りつけ、蕾会会員 164名の名前が彫ってあります。連名の中には、家元淡々斎夫妻や、陶工大野鈍阿、新派の名女優水谷八重子などの名もあります。鐘撞堂の横の茶筅塚は皆さんご覧のようですが、上を向かなくて鐘を見落とされる方も多いようで。

    高橋箒庵は、この鐘寄進の年の暮に77才で急逝しました。念願だった石山寺を模した多宝塔は、翌昭和13年春完成、護国寺の境内は整いました。箒庵の夢は実ったのです。そして、幸せだったのは、大震災と同様に戦災も免れたことです。東京屈指の、まさに茶道本山の威容を保てたのでした。

   護国寺には、この他に戦後寄贈された、蘿装庵(らそうあん)という二畳中板の小さな席があります。これは江戸千家の茶人で、数寄者たちとも交わりの多かった式守蝸牛(しきもり かぎゅう)の遺構ですが、不昧軒の前にひっそりと建っていて、大寄せで使用されたのを見たことがなく、存在そのものに気づいてもいない人も多いようです。

   他に、月光殿裏の客殿に書院として牡丹の間(十畳)があり、大寄せ茶会では、雨の日に濡れずに待てるので人気だとか。更にこの裏に近年、月光殿改修に合わせ新築された楓の間(八畳)があります。まだ新しいせいか、少し薄っぺらな印象は否めません。

  護国寺の寺運は隆々たるものがあります。本堂への階段下横にコンクリート造りの巨大な本坊、桂昌殿を建て、他宗の葬儀なども引き受け、収入は莫大なようです。

   仏様に足を向けて寝られないと言いますが、護国寺は高橋箒庵に足を向けて寝られませんね。

       萍亭主