明治末から大正と数寄者の茶の湯ははどんどん盛んになっていきます。

  かって熊倉功夫先生が、近代数寄者について簡単な表を作っておられますが、それによると、第1世代は井上馨(世外  せがい)、藤田伝三郎(香雪)、第2世代が益田孝(鈍翁)、村山龍平(玄庵)、第3世代が高橋義雄(箒庵)、根津嘉一郎(青山 せいざん)、原富太郎(三渓)、第4世代が小林一三(逸翁)、松永安左衛門(耳庵 じあん)となっています。高橋箒庵は、益田鈍翁からそれほど遅れているようにも思えませんが、細かいことはともかく、和敬会の創立メンバーは第1世代、後から参加組が大体第2世代でしょうか。明治20年より前に茶の湯を始めていたのが第1世代、明治20年代になって始めたのが第2世代、明治30年代後半から大正期に始めたのが第3世代、大正末から昭和にかけて始めたのが第4世代と考えるのはどうでしょうか。

   ともあれ、第2世代以降は、圧倒的に財界人が多くなり、ことに益田に指導される三井系が中心になります。勿論、根津や原のように三井系以外の大茶人もおり、その名を列挙したら、きら星の如くで、かなりのスペースがいるでしょう。

   その中のリーダーが鈍翁、益田孝だったことは衆論の一致するところで、よく、利休以来のとか、遠州以来の大茶人という形容で呼ばれます。ご存知のように、幕臣から維新後は貿易商から、井上馨と知り合い一時期大蔵官僚、退官して、渋沢栄一とともに財界に入り、やがて三井物産初代社長、そして三井財閥の大番頭として実質上の主権者となります。引退後も顧問格として生涯三井で隠然とした力を持ちました。

   私が不思議でならないのは、和敬会が結成された時、何故、鈍翁が創立会員に選ばれなかったのかです。3年前には大師会を開き、一流の茶人たちを大勢招待しているくらいなのにです。

   一つは身分的な問題でしょうか。実力はともかく、三井家の使用人であること、他のメンバーは、天皇以外の主人はないという明治的観点では、大なり小なり一国一城の主で、その辺のことが影響したか。あるいは、この時期ちょうど、鈍翁は三井財閥の中で、やや日陰の位置でした。ライバルで重工主義者の中上川彦次郎が三井の実権を握り、重商主義の鈍翁は遠ざけられていた時期なので、地位に翳りがあったのか。もしくは和敬会のリーダー松浦心月とあまり仲良くなかったのか、大師会の招待者の中に松浦心月の名が見えぬのが気がかりなのですが。もしくは単純に明治の早くから茶の湯に親しんできた仲間は、もう、一つのサロンが出来上がっていて、そこに入れなかったのか。でも、なら早くから茶の湯をしていた弟克徳には何故声がかからなかったか?やっぱりまだ一種の成り上がり視されたか。まあ、結局のところ原因不明ですね。

   あと、今日の文中に出てきた井上馨こと世外は、ご存知、長州出身の政治家で元老の一人、総理大臣にこそならなかったが、財政通で実業界にも大きな発言力を持ちました。美術好きで早い時期から茶の湯も好き、汚職も結構噂されただけあって金持で名器を集めました。また、実業家たちの持つ名器を、あの手のこの手で強引に取り上げる癖があり、恐れられました。世外が和敬会に入れなかったのは評判もさることながら、逆に地位が高過ぎたのだろうと思います。今日はこの辺で

      萍亭主