このブログ「不人気の時代」で紹介した高橋箒庵の回顧談「茶の湯の復興の先頭に立った人」に名前が上がった人については、あと触れていないのは二人だけになりました。
その内、松浦詮こと心月に関しては、以前このブログ「マツラとマツウラ」で紹介しましたので、お忘れでしたらもう一度ご覧を。
さて、残る一人が安田善次郎ですね。日本4大財閥ってご存知?死語なったかと思ったら、最近の中学生の教科書に出てくるそうで、三井、三菱、住友、安田を指すのですね。
中でも金融系では安田が最大だったといいます。
善次郎は、富山藩の下級武士(足軽)の息子で、年少から江戸に出て丁稚奉公をし、やがて独立して両替商を始め、明治維新の時は30歳ですが、その後、種々な事業を経て(この辺は経済史じゃないので省略します)、金融業を中心に大成功し、明治10年代には大きな存在になっていました。案外、趣味が多い人で、ことに茶の湯は明治の早い時期から親しみ、松翁と号して表千家を学びました。親しむきっかけはわかりませんが、私の想像では、丁稚時代に主人たちの旦那芸の茶の湯に触れて憧れたんじゃないかと。和敬会は松浦心月の提唱で始まったといいますが、松翁はすぐ参加して、世話人的な役目を務めたといいます。松翁は明治12年に本所横網に広大な敷地を購入し、そこに別邸と茶室を構えました。今、両国駅から徒歩十分の同愛記念病院や安田学園などの敷地が全部その所有地だったといいますから、驚くほかない広さです。更に隣接の今の安田庭園は、明治24年に本宅として買い取ったもので、後に東京市に寄付されました。これらはいくつかの大名屋敷を買収したもので、その中には徳川御三卿の田安家の所有地もあり「世の中の逆さまになるためしかな田安屋敷が安田にぞなる」と維新後の世相の変転の例にされました。接客用の別宅だったのですが、茶室が今のどの辺りにあったか判然としませんが、宗旦好み四畳半の又隠写しだったといいます。これは写しといっても、裏千家11代家元玄々斎が手掛けた本格的な写しで、松翁が手に入れた経緯はよく知りませんが、はっきりと表千家なのに、平気で裏千家の代表的茶室を使うところは、やはり数寄者です。
しかし、松翁は評判のよくない面もありました。大体、金融業は人に好かれにくい商売ですし、松翁は節倹家で、吝嗇と見れられる一面もありました。熊倉功夫先生は「松翁が茶の湯をやらなかったら、政財界の人とあれほど交流出来なかったのでは」という趣旨のことを言われています。そして確かに茶の湯の方でもそう見られる面がありました。和敬会で言えば、後から入会した財閥組、あるいは大正期を担った数寄者たちは、皆こぞって名物茶道具を手に入れ、競い合いましたが、松翁は、和敬会発足組では三井高弘と共に大富豪だったのに、そういうものに手を出さなかったのです。それはいいのですが、口癖が「私は貧乏で、とても皆様のように名器を贖うことは出来ませぬ」だったそうで、茶の湯界では一二を争う大金持であることは万人承知の事実ですから、かなり嫌味で、他の富豪たちは渋い顔をしたでしょう。長くなりましたので、続きは次回に
萍亭主