そろそろ、明治の茶の湯復興の象徴、和敬会に触れましょうか。和敬会なんて、いかにもお茶にふさわしい名前で、つけたくなるような名前ですよね。今でも同名の会がいくつかあるらしいですが、明治のこの会は、別名の十六羅漢会が通り名でした。明治32年に(33年説も ありますが)誕生した時、会員を十六人限定とし、その後も欠員が出れば補充するが、増員はしないというシステムを取ったため、お釈迦様の高弟の十六人の羅漢さんになぞらえて、他からそう呼ばれたものです。もっとも会員の一人東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)が、十六羅漢それぞれの名の銘の茶杓を削り、会員に贈っていますから、お互い自認していたのかもしれません。
最初のメンバーは、旧大名華族が松浦詮(まつら あきら)、久松勝成(かつしげ)、東胤城(とう たねき)の3人、公家出身華族が東久世通禧1人、海軍関係の華族が伊東祐麿(すけまろ)、伊藤雋吉(しゅんきち)の2人、軍医関係が石黒忠悳(ただのり)、戸塚文海(ぶんかい)の2人、財閥関係が安田善次郎、三井高弘、岡崎惟素(これもと 三菱系)の3人、江戸の商人出身財界人が金沢三右衛門、岩見鑑造、青地幾次郎の3人、松浦詮の弟子が松浦恒(ひさし 松浦家分家)、三田葆光(やすみつ 漢学者)の2人という構成でした。流儀で見ると、鎮信流、遠州流、宗徧流、織部流、表千家、江戸千家、裏千家があり、流儀の不明な人も6人ほど居て、流儀は全く関係なかったことが明らかです。
会長などはなく、ただ茶道家元で練達な松浦詮こと心月が、リーダー格で、安田、石黒の2人が世話役格だったと伝えます。死亡者が出ると補充をしたわけですが、誰の代わりに誰が入ったのかは、調査している学者もおられるかもしれませんが、私にはわかる資料がありません。とにかく代わったメンバーは、三井・三菱の財閥系が多く、益田孝、馬越恭平、高橋義雄、三井高保、加藤正義、瓜生震の6人、以外の財界人が吉田丹左衛門、竹内専之助の2人、松浦詮の後継子息の厚の、以上9人です。数寄者の茶の湯の最盛期を担った人たちと言えます。明治45年には、9人全員が入れ変わっています。ちなみに最初に死去した会員は戸塚文海で、明治34年でした。大正12年の関東大震災を機に解散したとの説もありますが、大正10年頃から補充せずに自然消滅したとの説もあり、一説には団琢磨、藤原銀次郎、近藤廉平が会員になったともありますが、どうでしょうか?
では、和敬会とは何をする会か。順会(巡回)茶事と呼び、会員が順に、といってもきちんと順番にではなく自在に、亭主となって茶会をする、招く客も会員で(必ずしも全員ではなく)、何回か連日行うケースもある、お詰に茶道具商か、宗匠が入る場合もあるが、基本的に会員だけが客なので、いわば閉ざされた世界です。
つまり、純粋に茶の湯を楽しもうよという観点から生まれた会で、啓蒙運動をしようとか、普及を目指すということではなかった。同じ階層の人はそういう会があると承知していて、羨ましいとか、俺もお茶をやってみるかと思ったりしたかもしれませんが、一般には知られていなかったでしょう。数寄者の茶の湯が知られ、影響をもたらしたのは、高橋義雄(箒庵)が「東都茶会記」や野崎曠太(幻庵)が「茶会漫録」を書いて新聞に載せるようになってからだと思います。一般がそういう面白い世界もあるのだと知り、あるいは従来の茶の湯を習っていた人が「ヘーぇ」と感心するというのは、そういうコミニュケーションがあった後でしょう。益田鈍翁など三井系では若い部下を茶の湯によく勧誘したと言いますし、当時のサラリーマン階級(やっと定着した)では、上役を見習って分相応に茶の湯をする、紳士の身だしなみ的感覚が、ことに三井系には多かったようです。他の要因もあるのですが、一般家庭にどんどん茶の湯は普及していった、ただし、それは大正以降で、東都茶会記が始まったのも明治45年、茶会漫録はもう少し早いですが、和敬会の創立メンバーの大半は死に、会の最盛期は過ぎています。
ですから、和敬会をシンボルとしてはともかく、その活動をあまり過大評価するのはどうかなと私は思います。まあ、数寄者の先駆けという評価は正しいのでしょうが。
萍亭主