益田克徳こと非黙は、茶の湯の実技を浜町の江戸千家、川上宗順に習いました。
数寄者たちも、茶の道に入り込むのは数寄者仲間からの勧誘でも、実技はプロから習わざるを得なかったでしょう。しかし、点前をするということに興味を抱く者はまず居らず、 茶事、道具、懐石、その他なんでも流儀の約束に縛られず、自由な発想をするので、あの人の流儀は何だったのかと思い出せないケースが多いのです。複数の流儀を学ぶというか、どちらの系列か分からない例もあり、大名のように茶頭として水屋係にプロを雇う場合も多いのですが、それも一定の流儀の人を続けて雇い入れることはなかったのです。
明治10年代後半くらいまでは、東京で茶の湯の指南をしているのは、川上宗順と遠州流の赤塚宗揖、唐津と東京を行き来していた宗徧流の山田宗寿尼くらいだったといいます。
赤塚などはひどい貧乏で有名でした。この頃は、街の宗匠、例えばご近所の何人かを教えているというような家は、ほんとになくなっていたでしょう。
しかし、高橋箒庵が書いたように、世相が落ち着くと民間の茶の湯は息を吹き返します。箒庵は街の宗匠の茶事を馬鹿にしていますが、それでもそういった動きは、茶の湯の復興に、地味ですがいくばくかの力にはなったでしょう。数寄者たちは、流石に茶の湯の師匠を選ぶのに、ある程度のステータス、家元に近いクラスの宗匠から学びますが、その中や交流の中から、後年、数寄者茶の湯の全盛期に、その茶会のお詰役として加わる宗匠も出てきます。
もう一つ、この頃から数寄者や、その卵を支えた者に、山澄力藏を筆頭に多くの老巧な茶道具商がいます。彼らは数寄者の道具蒐集を助け、指導もしました。明治10年代後半から20年代の数寄者たちの成長期に、最も役だったのは彼らかもしれません。
そして同じ頃、数寄者と交わったあるグループがあります。数寄者の茶の湯全盛期が来る頃には、年齢のせいなどで、ほとんど姿を消しますが。それは江戸幕末の商人です。日本橋の砂糖問屋星野清左衛門、金貸業で興行経営(歌舞伎座の創立者)の千葉勝五郎、運送業の仙波太郎兵衛などといった名が記録に残っています。全盛期の数寄者は新興(当時では)の財閥だったのに対し、この時期は江戸の旦那たちの趣味として培われた茶の湯が、新しい数寄者たちに交じって残された時期なのですね。
以上、皆、目立たない縁の下の支えですが、全く忘れられるのも可哀そうですよね。
萍亭主