明治維新期の茶の湯の苦境に、明確にスポットを当てたのは、熊倉功夫先生あたりが最初でしょうか。それまでにも当時の状況は、先人たちによって語り伝えられてはいますが、ちょっと遠慮っぽい所がある。ことに家元系の著作には触れられない点があります。身内の先祖のことですから無理もないですが。
明治維新で一番痛手を受けたのが武士階級なのは間違いありません。士族という階級は残っても、誇りである帯刀は禁じられ、生活の支えの俸禄を失って、必修教養とされた茶の湯と能楽どころではありません。
次に痛手を被ったのは大名でしょうか。ほとんどが赤字経営だった藩の経営責任から逃れて、ほっとした面もあったでしょうが、家来がなくなり、家計のやりくりというものには、やはり直面します。秘蔵の茶道具を売り立てるようになるのは、まだちょっと先ですが。
そして寺も衰退します。神道、国学にシフトした政策による廃仏毀釈の嵐で、茶の湯と縁のある禅寺も衰退します。町人、豪商と呼ばれるような中にも、世相の変転に乗り遅れて没落するものも結構出ます。
そして茶の湯の家元も、ほとんどが打撃を受けます。多くが大名から俸禄を得ていたものがストップし、スポンサー的立場の武士階級や豪商が離れてしまい、現在と違い、地方や孫弟子クラスを収入源として把握しきれておらず、一番大きかったのは多分、文明開化の中で、旧弊視された茶の湯に新たに参加しようという階級が、なかなか生まれなかったことでしょう。
当時の家元の困窮を伝える有名なものは、宮尾登美子著「松風の家」でしょう。この小説は裏千家をモデルにしたものです。12代家元又玅斎の突然の隠居から、若くして家元となった13代円能斎の苦闘から死去までを裏千家の家族の内情を中心に、かなり忠実に描いたものです。勿論、裏千家には面白くない内容でしょうし、鵬雲斎宗匠が「あれは極端にデフォルメされている」という意味の発言をしたり、テレビ化がされた時は裏千家事務局から種々接触があったとか小耳に挟みましたが。この本には書いてありませんが、一時は裏千家の茶苑そのものを人手に渡し、荒神下に仮住まいした時期もあります。茶室寒雲亭は旧主の久松家に譲渡しています(そのためか、現裏千家の主要な茶室は全て重要文化財ですが、寒雲亭は入っていません)。その他にも、例えば、円能斎の弟子の田中仙樵は後年「円能斎から来る手紙は、全部借金の無心だった」と暴露しています。事実、この頃、裏千家はいろいろな道具を手放しています。
表千家は、第一のスポンサーが三井家で、同家一族は規模も大きく維新変動期を何とか乗り切ったので、裏千家よりまだましだったようですが、それでも限界があり、当時の家元が「縁側に座り、思案しながら溜息ばかりついていた」と、その頃同居していた後の武者小路千家の家元が語っています。
その武者小路千家は、嘉永7年(1853)の火災で茶室を全部失い、明治14年1881)まで正式の茶室は一つもない状態でした。家元一指斎は円能斎同様、一時期東京に出て新しい道を探しています。
広島の宗鎮流家元は収入がなくなり困窮死したと伝えられ、宗徧流、江戸千家、久田流、庸軒流などの家元は、本拠を捨てて各地を流転するようになります。
まさに家元受難の時代。長くなりましたがので続きはまた
萍亭主