いやあ、江戸東京の茶の湯について、上方と比べながら長々と考えて来ましたが、まず茶室では敵わず、家元の存在感でも敵わず、茶陶でも敵わず、金工(釜)は明治以降にやっと上方にないものを見せはしましたが。

   もともと茶の湯は、珠光以来、上方中心で二百年、その後、江戸に入って来た文化、敵わないものばかりなのは当然かも知れません。

  でも、何か勝るものはない?考えると、一つ。

   茶の湯参加者の数、これは18世紀後半から、江戸が全国一でしょう。正確な統計はないのですが、当時世界一の百万都市というベースもさることながら、将軍から、かなり下層の町人まで、茶の湯に参加していることは実証出来ます。川上不白が一万人の弟子があったという伝承も、ある意味、一つの傍証になるでしょう。現在の東京も、流儀の情報、例えば千家系の支部の数などから推定すると、やはり茶の湯人口は最大だと思われます。まあ、京都、金沢、名古屋、松江など、茶どころと呼ばれる都市の総人口に対する茶の湯人口の比率は、東京より高いかも知れませんが、絶対数は及ばないでしょう。どれほど深く関わっているかという質の問題を問われると、??ですが。

    そんな詰まらぬ自慢はさておき、東京が茶の湯の歴史上、最も輝いたと言える時期があります。こればかりは東京が中心で茶の湯を引っ張った、その時期は、明治維新後から大正・昭和初期くらいまでの、数寄者の時代と呼ばれる茶の湯の世界です。

    茶の湯の世界は、珠光以来、紹鷗、利休、織部、そして遠州・宗旦・石州の時代と発展を続けて来ました。危機的状況に陥いることはなかったのが、最初の危機がやって来たのが、明治維新といっていいと思います。

   しばらく、明治維新後の茶の湯の歴史を、東京中心の視点で、こぼれ話を拾いながら、見て行こうかと思います。

   では明日また

        萍亭主