江戸のお庭焼はまだあります。ありはするのですが‥‥
水戸と同じ御三家の、それも筆頭の尾張徳川家。江戸には沢山の藩邸(屋敷)を持っていて、市ヶ谷の屋敷(今の防衛省用地)や戸山屋敷(今の戸山ハイツ辺)でお庭焼をやり、国許から瀬戸の陶工を呼び、楽々園焼とか戸山焼と言った、同様に尾張藩分家の美濃高須松平家も四谷荒木町にあった屋敷でお庭焼をやり、魁翠園焼(かいすいえんやき)と言ったなど、ものものしい名前が文献に出てくるんですが、さて実物は、遺品はどこかの博物館か美術館にあるんでしょうけれど、大捜索しないと、あるいは偶然でないと、私には、いえ多分皆さんにも、幻の陶器ですよね。
お庭焼ではありませんが、文政時代(1818〜30)に、放下庵特山という茶の湯好きの坊さんが茶器を焼いて評判で、特山焼と言ったとか。本郷千駄木の浄土宗光源寺の住職で南坊流十二世を名乗り、作品には全部釘彫りの字画があるとか言いますが、これも田中仙翁さんの「茶道具入門」で写真を見、読んだくらいで、やはり幻。
江戸は大都会ですから、文献に残らない焼き物もあったかも知れないですが、まあ
良い陶土も採れないし(さっきの特山は信楽から土を取り寄せたとか)、生活陶器も輸入に頼る土地柄、陶業が育たないのですね。関東地方に目を向けても、歴史のある窯は益子焼、笠間焼くらいですが、これも茶陶に関しては全く関係ない。
こうしてみると、最初に言った、口惜しいが上方にはかなわないということを今更確認します。え、もう終わり?と言いたくなるほど窯も作家も少ない。これが京上方
なら十倍の紙数が要るでしょう。それになんたって残っている品が少ない。これじゃ、江戸という郷土色を出して道具組みして席をなんて、ちょっと諦めですよね。
明治以降になっても東京の茶陶はそう発展はしません。いい作家は出ますが、茶陶作家は多くはありません。でもそれを探索するのは後回しにして、気分を変えて、江戸の釜を見てみようと思います。でもその前に、明日はブログをお休みします。
萍亭主