江戸の茶陶、幻続きでうんざりなさるかも知れませんが、まだあるんですね。
お庭焼。大名が自分の慰みに作らせる窯で、おおむね小規模、鍋島焼のように大規模なもものは、専売産業的な意味を含み、どう呼ぶかは議論があります。国許の城内や別邸で築かれるものが普通なのですが、江戸にもいくつかありました。江戸には大名の屋敷は千以上あり、公邸の上屋敷ではなく、余暇を楽しむ別邸の下屋敷に、もっとお庭焼があってもよさそうに思えるのですが、江戸は火災が多く火の元にうるさかったせいでしょう。
お庭焼のうち、まず大崎お庭焼、松平不昧公が、文化3年(1806)、今の東五反田付近に、二万坪の下屋敷を取得、十一の茶室を建て、庭、露地を整備して、一大茶苑を作りました。そこで、「文化13年(1816)初代土屋善四郎(布志名焼)及び初代長岡住右衛門(楽山焼)を国許より招きて焼かせたるものにて茶器を主とす」と、加藤唐九郎(名工、永仁の壺事件で有名ですね)の陶器辞典に出ています。
しかし、先年、松江の学者で大崎屋敷の研究をなさっている専門家の方の講演を聞いた時、この話を持ち出し「窯跡はどの辺に?」と質問したら「え!そんな話は聞いたことはありません」と否定されました。え?!たしかに「伝大崎焼」と書いた品を一度見たことがある程度で、確証もなく、やはり完璧に幻なんでしょうか?ちなみに大崎の茶苑は、嘉永6年(1864)に海防政策のため幕府に没収され、破壊されました。もったいない話、残っていたら間違いなく重要文化財で東京名所。でも震災、戦災は地理的に免れなかったかなあ。
次は、水野焼。天保頃(1830〜43)、辰ノ口(江戸城和田倉門近く)の水野出羽守屋敷内に、道太郎という陶工が茶器を焼いたといいますが(老中とはいえ、あまり広くない上屋敷で窯を作るかなあ)、文献のみで作品は私には全くの幻!
三つ目は、小石川後楽園内で焼かれた後楽園焼です。ご存知水戸黄門の水戸藩の下屋敷、今ご覧の後楽園よりずっと広い屋敷内なので、窯を築く場所に不自由はなかったでしょう。水戸の殿様というと神道、儒学、大日本史と堅いイメージですが、意外に茶の湯好きが多かったようで、宝暦年間(1751〜64)京都からわざわざ楽7代長入を招聘、楽茶碗を製作します。殿様自身にも手造りを楽しむ人も居て、8代斉脩(なりのぶ)、9代斉昭には、それぞれの印を捺した作があるとか。一般には丸に後楽、または丸に後楽園製の印が捺してあり、これは、私も何度か骨董屋で見ました。したがって幻ではないのですが、さる目利き曰く「もともと売品ではないので極端に数が少なく、楽なので贋物も多くて、あの値段じゃあどうかなあ」と。ということは、これも幻?やれやれ。
なお、後楽園焼というのは、もう一つ、岡山藩池田家のお庭焼にあります。これは色絵備前という彩色陶器が主で、間違えようはないんですが念のため。現在この名で焼いている作家も岡山にはいますのでご注意。続きはまた。
萍亭主